不思議な好青年
「泉田くん、一年の時に比べてずいぶんガッシリしたよねぇ」
「うん? ……そうですか?」
隣の席のに唐突に声をかけられ、泉田は首をかしげた。
朝のHR前の騒がしさのなかで、泉田との周りだけが物静かだ。
は机に頬杖を突いて泉田の体をまじまじと見つめる。
夏服に押し込まれた自慢の筋肉を羨望の眼差しで見られ、泉田はフフッと笑みをこぼした。
「触ってみますか?」
「えっ、いいの」
「どうぞ」
腕を差し出すと、は恐る恐る泉田の二の腕に触れる。素肌の下に眠る筋肉を確かめるように、の指先がくにくにと動いた。
「結構柔らかいね」
「柔らかいのは、いい筋肉の証なんですよ。……ほら」
「わぁ! すごく膨れるねぇ。かたーい」
「さんぐらいならたぶん片手で持ち上げられますよ」
「あは。わたし結構重たいのよ」
ちからこぶを作ると、感動したがきゃいきゃいとはしゃぐ。打てば響くような反応に、泉田は誇らしげに口元の笑みを深くした。
素直な賞賛が心地いい。
本当ならば一番の自慢である大胸筋を見せたいところだが、さすがに女子に見せるのは抵抗がある。とは先週隣の席になったばかりで、あまり話したことがないのだ。
は泉田の二の腕がよほど気に入ったらしく、まだふにふにと触っている。
「……ね、泉田くん、放課後、五分だけでいいから時間くれない?」
「うん? ……部活行く前でしたら、五分なら」
不意に声を小さくして耳元でささやかれ、泉田はうっと息を小さくした。ほっとしたようなの笑顔が愛らしく、妙に気恥ずかしい。
***
「筋肉の付け方、ですか?」
「そう! あのとき聞いてもよかったんだけど、まわりに聞かれると恥ずかしいから、ダイエットなんて」
放課後の教室でが照れたようにはにかんだ。
筋肉トレーニングの教えを乞うことを恥ずかしがる感覚は、泉田にはないものだ。女子は恥ずかしがるものなのだろうかと納得しながら、泉田はうなずいた。
「いままで何度かチャレンジしたんだけど、いまいちうまくいかないんだよね……」
「うーん、すぐ挫折してしまうなら、やり方がよくないのかもしれません」
「一日三時間ジョギングとかやってた。スクワット100回毎日とか。あとは、運動部入ってた頃やってたやつとか」
「……量が多すぎます。まずは自分の筋肉量にあった回数をこなして、そこからじょじょに負荷をかけていかないと」
「ふむふむ」
は泉田の言葉を律儀にメモを取る。泉田も生真面目な性格であるから、真剣に質問されると真剣に答えねば、という気になる。
「最初は無理のない範囲で。15回とか、20回とか……それと、毎日おんなじ場所ばかりトレーニングするのはダメですよ」
「そうなの?」
「回復するときに筋肉が増えますから、休ませてあげないといけないんです。全身をゆっくり、長期的に絞っていくのが一番です」
「あぁ、当然だけどすぐ効果が出るもんじゃないよね。もしかしてこれ、筋トレの基本の基本? 教えてれてありがとう。やっぱり、こつこつやらないとだよねぇ」
「あとは……筋トレの秘訣と言えば……」
「うん、なにかある?」
待ってましたと言わんばかりに、が机に身を乗り出す。たわわな胸が腕に乗り、制服にシワを作る。刺激的な光景から思わず泉田は目をそらした。
「『名前』……です」
「なまえ?」
「筋肉に名前をつけてかわいがるんです。愛着がわきますし、筋肉の性格を理解することでより効果的なトレーニングが見込めます」
「なるほど!! ん……うん?」
反射的な相槌のあとには首をかしげる。泉田のことばがいまいち理解できなかったからだが、泉田はそれを肯定と受け取った。
「き、筋肉のせいかく……?」
「わかりますか?部活のみんなはおかしいって言うんですけど、ぼくはこれでこの筋肉の鎧を手にしました。過酷なトレーニングを、筋肉の声を聞いて一体化することで筋肉と共に乗り越えるんです。なんとなくでも、わかってくれるひとがいてよかった。筋肉ネーミングはすぐにでも実践できますからぜひやってください。なんならボクが名前をつけましょうか?」
「う……うん」
早口で捲し立てる泉田の勢いにおされたがこくこくとうなずいた。言葉は八割がた認識できていなかったが、泉田は彼女が会話についていけていないことに気づかない。
「どこが痩せたいんですか?」
「ふとももかな」
その言葉の意味ならわかる、とがはっきりと答える。泉田はうむと頷いた。
「わかりました!」
泉田は少女の足元に膝をつくと、のふとももをつかんだ。今朝にそうされたのと同じように、脂肪の下の筋肉を確かめるように、ふにふにと揉む。
は声をあげることすらできない。ふともものすぐ上には下着があり、女のこにだってそう簡単には触らせない部位だ。スカートをめくれば、すぐにパンツが見えてしまう。
「え、えぇと……!! いっいっ、泉田くん?!」
「静かに! いま、さんの大腿四頭筋と対話してるんです」
「き、筋肉と対話?」
「ええ。さんも神経を研ぎ澄ませて、筋肉の声を聞いてください」
「ごめんよくわかんない」
「理屈で理解しようとするからです。感じてください」
の拒否に気づかず、泉田はジッと手のなかのふとももを見つめた。
その目は真剣そのものでいやらしい気持ちなど一切ないことがわかるから、も拒絶しずらい。ただ恥ずかしさが、ふとももに触れている筋ばった手のひらから立ち上る。
「……よし! この子の名前は『クリスティーナ』だ!」
「く、クリスティーナ……なるほど」
「もう片方の足も出してください」
「こっちもつけるの!?」
「もちろん」
真面目な顔でもう片方の足に触れる泉田を、は困った顔で見下ろした。真剣に考えてくれているのだろうが、ついていけない。
相談する相手を間違えただろうか。上から見下ろすと、泉田の睫毛の長さがよくわかる。羨ましくなるほどの長さだ。
「泉田くんまつげ長いね」
「エリザベスの声を聞いてください!」
どうやらそういう名前になったらしい。
「き、決まったら、手を離してくれると嬉しいんだな」
「うん? ……わっ! ご、ごめんなさい!!」
距離と触れている場所に気づいた泉田が手を離して慌てて飛び退く。尻餅をついてアワアワとうめく泉田の顔は赤い。筋肉の命名に夢中で、ほかのことなど考えていなかった。
うっと、えっと、などと言いながら必死にいいわけを探す泉田をみて、やっとも安心する。
「だ、大丈夫だよ。真剣に考えてくれてたんだよね……ありがとう」
「い、いえ、当然デス」
どうにかそれだけ言ったきり、お互い黙り込む。申し訳程度に外で鳴いているセミが、かえって気まずさを助長する。
真っ赤になって視線をそらして、しかし意識は相手に集中している。
「……あ! そうだ、泉田くん、部活」
「あっそうだ、部活だったんだ」
気まずさの突破口が開け、お互いぎこちないながらも笑みが出る。
泉田は立ち上がり、自分の席に掛けていた鞄を掴んだ。
「じゃあ、ボクはいきますね」
「うん、部活あるのに話聞いてくれてありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでですよ」
下心のない本心に、ももう一度礼を言って頭を下げる。
律儀な子だなと、泉田は目を細めた。いままでろくに会話したことがなかったが、好感の持てる女の子だった。
教室から出た泉田は、ふと思い付くことがあって背中をそらして教室を覗き込んだ。
「そうそう、下半身太りなら」
扉に顔だけ出し、照れたように笑う。
「自転車乗るのもいいですよ! 興味あったら聞いてくださいね」
それだけ言い残すと、泉田は返事を待たずに小走りに廊下を駆け出した。
上履きの爪先が床を蹴りあげ、澄んだ足音が響いていく。
が廊下に顔を出す頃には、長い通路の向こうに泉田の姿はなかった。
嵐みたいな人だな、とは思った。
一年のころは小太りだった泉田はあまりコミュニケーションが得意な方ではなく、よくおどおどとしていたように思える。それが自転車部に入り、徐々に筋肉がついていくに比例して明るくなった。今ではインターハイに出場するほどの躍進を果たしたのだ。
泉田とあまりかかわったことはないが、その事を単純には尊敬している。
(自転車楽しいんだろうなぁ)
時たま学校帰りにすれ違う部活中の泉田は、いつも真剣な顔をして三年生を追いかけている。
姿のない泉田の背中に見とれていたことに気づいて、ははっとして首を振った。自分も帰宅しようとして、ふと下半身の違和感に気づく。足がむくんで、運動をしたがっている感覚がある。
「……クリスティーナとエリザベス、か。よろしくね」
返事をさせるように、爪先を上下に動かしてみる。
会話は恥ずかしいなと思って、は苦笑した。泉田くんは面白い人だと思いながら、帰宅までの道を遠回りして走ることに決めた。
2015/06/24:久遠晶