まだそれはなにも語らない
社会科の教員は黒板の端から端まで文字を書く。止まらないトークを繰り出しながら響く板書の打刻音はまさにマシンガンのようで、はそれが嫌いではない。
嫌いではないが……自分が日直の時には勘弁してほしい。
上履きの先を曲げて懸命に爪先立ちをしながら、は届かない黒板の上方に眉をしかめた。
爪先立ちをすると黒板消しにうまく力が入らず、文字は消せてもチョークの跡が残ってしまう。椅子を持ってくれば解決する問題だがそれは負けた気がしてイヤだった。
そのとき、浅黒い手と黒板消しが、の黒板消しの上方を掠めていく。
日直の片割れは休んでいるから、黒板を消すのはのだけのはずだ。
が思わず顔をあげると、自分を見下ろす泉田の目と視線があった。
「無理をしないで。上はボクがやりますから」
「い、泉田くん」
を後ろから覆うようにして黒板を消すものだから、予想外に距離が近い。ふっと香る爽やかな匂いは、泉田の使う制汗剤だろうか。
「日直じゃないのに、ありがとう」
「いえ、当然ですよ。むしろいままで気づかずすみません」
いまは三時間目の休み時間だ。一時間目も二時間目の休み時間も、はひとりで黒板消しを消していた。
謝罪する泉田に、は頬を緩めた。
「そんなことないよ! すごく助かる。ありがとう」
「どういたしまして。ところで、最近筋肉が変わりましたね」
「えっ?」
黒板消しをクリーナーで掃除しながら、泉田が微笑む。言葉の意味がわからずは首をかしげた。
「クリスティーナとエリザベスの調子もよさそうだ。元気なことはいいですね」
「あ? あ、あー。えぇと……痩せたね、ってこと……?」
調子がいい。筋肉が元気。どう反応すればいいのかわからず、は恐る恐るたずねた。
そもそもの太ももは制服のスカートで隠れているのだが、その状態で筋肉の調子がわかるのか――そんな疑問を、は黙殺した。考えすら浮かばなかったことにして目をそらす。
「脂肪の総量は減っていませんが、筋肉量が増えています。とてもいい傾向だと思いますよ」
脂肪は減らないで筋肉が増えたと言うことは、つまるところ身体が太くなったと言うことだ。反射的にはムッと眉をしかめた。デリカシーがないと言おうとして、泉田が心から嬉しそうに笑っているのを見て毒気を抜かれた。
「いいことなの?」
「ええ。脂肪を筋肉が押し出す。産声をあげる……そうなるともう、脂肪が筋肉に変換されていきますから……いいものですよ、あの感覚は」
「はぁ……。なるほど、流石に物知りだね」
「フフ」
筋肉には並々ならぬこだわりがあるらしい泉田は誇らしげに唇を吊り上げる。
帰宅部のにはさっぱり理解できない境地だ。筋肉に名前をつけるとかかわいがるとか、想像の斜め上を言っていて反応に困る。
きっとアスリートはみなこうなのだろうと納得した。
「えと、その……アンドレとフランク、だっけ。おげん……き?」
恐る恐るが言うと、泉田は目を開いて硬直した。ぱっちりとした真っ直ぐな瞳がぱちぱちとまばたきをする。
泉田に合わせて話を振ったつもりだったが、やはりおかしなことを言ってしまっただろうか。
怒らせたかもしれないとはあわあわと慌ててしまう。威圧感に気圧される。
「えと、ちがうよね、ごめんね、バカにしたわけじゃなくて――」
「あぁ、元気ですよ、今日もいい調子だ。……アンドレじゃなくてアンディですけれど」
頬を緩ませた泉田がそう言う。怒ったわけではないらしい。はほっと息をついた。
「すみません、ちょっとアンディをなだめていて」
「き、筋肉をなだめるとかあるんだ……」
「ええ、性格だってそれぞれ違いますから」
泉田の表現は独特だ。は深くうなずいて「なるほど」ともっともらしく相槌を打ちながら、その実さっぱりわかっていない。
「いつかさんにも聞こえますよ。筋肉の声が」
不出来な弟子を見守る師のような慈愛と期待のこもった視線で見つめられ、は視線をそらして曖昧にごまかし笑いを浮かべた。
よくわからなくてごめんなさい、と罪悪感がひとつまみ。
黒板を綺麗にしおわり、は礼を言って自分の席へと戻った。
ややあって教員がやって来て、授業が始まる。
長話の大半を聞き流しながら、は泉田の言葉について考える。
筋肉の声。産声、性格。深く考え込んでも、やはりよくわからない。
ダイエットのためにトレーニングを重ねていれば、やがて泉田の言葉もわかるだろうか。スカート越しに太ももをそっと撫でてみる。
の大腿四頭筋、またの名をクリスティーナとエリザベス――それはまだ、なにも語らない。
***
最近、からだが軽くなった気がする――箱根の坂道をジョギングしながら、は思った。
以前ならば息切れして歩いて登っていた山が、息を乱さず登れている。足取りは軽く、その気になればもっと速度をあげて駆けあがれるだろう。
なにかに誘われるように、は坂を蹴りあげる力を強くした。の期待に応えるようにふくらはぎの筋肉は伸縮し、望んだ早さを実現する。
――筋肉の産声。
泉田の言葉がの脳裏を掠めた。今ならば、なんとなく意味がつかめる気がする。
筋肉が育つ前の前準備。筋肉がついたことによる変化。それらを『産声』と表現していたのなら、いまの筋肉は産声をあげている。
もっと早く走れる。まだ行ける。この先に――行きたい。
胸を叩く心臓の脈動が心地いい。いつしかは全力で坂を駆け上がっていた。
背中に羽が生えるようだ。その心地よさと筋肉の産声は、不意に止んでしまう。
シューズの靴を踏んづけてしまったはおもいきりつんのめった。そのまま前にスッ転ぶ。
「いた……げほっ、がほっ」
手足を擦りむいてヒリヒリと痛い。咳き込むように息をしながら、走りすぎて酸欠状態だったと自覚した。伸縮を繰り返す心臓と肺が痛い。道路の隅でどうにか立ち上がって息を整える。
調子にのって走りすぎた。膝ががくがく言って体力は底をついてしまった。筋力がついても、心拍が貧弱では体力はつかない。
痛みはじめた脇腹を押さえる。
まだジョギングのノルマには一キロほど残っているが、疲れたから今日は休んでしまおうかと怠惰な気持ちが顔を出す。
今までであれば誘惑に抗えず、今すぐ家に帰ってポテチでも食べていただろう。
実際、はそうしようとした。運動靴の踵を返し、家に帰ろうと二歩足を進めた。
「……だめだっ! これじゃ今までと一緒だ!」
家から放たれる引力を感じながら、は気合いで振り返った。ジョギングのルートを完遂しようと、重たい足を持ち上げる。
うつむいて、二本の足を視界にいれる。
――諦めないで、ちゃん!
――私たちがついてるよ!
心の中で筋肉のセリフをアテレコする。ぬいぐるみをしゃべらせるようなごっこ遊びの延長でしかないが、それでもはやる気が出た。
「エリザベスとクリスティーナもそう言ってるし、頑張らないと。……あぁでもこれちょっとやっぱりむなしいな。でも、すごく効果ある」
泉田の言う『筋肉の声』は、やはりまだ理解できない。しかしその輪郭は掴めたような気がする。はまた足を持ち上げて走り出した。
***
朝、いつも通り登校してきたは、教室にはいるなりあっと声をあげた。
「泉田くん!」
部活が終わり既に席についている泉田に駆け寄る。
「おはようございます。どうかしましたか」
「うん、いや、特にないんだけど。なんとなく筋肉の声ってのがわかってきたかもって」
「本当ですか!」
キラキラとした瞳が、隣に座るに迫ってきた。前のめりになった泉田に両手を掴まれ、少し照れてしまう。
泉田は真面目だから、こういう肌と肌の接触が異性をドギマギさせることに気づかないのだろう。はそう納得して、戸惑いを心におさめた。
「昨日ジョギング中に挫折しかけたんだけど、エリザベスとクリスティーナのために頑張ろうって思えたの。それは泉田くんの言う筋肉の声とは違うんだろうけど、でもうっすらわかれた気がしたの」
「はい、はい、はい……! それはれっきとした対話ですよ!はっきりと筋肉の気持ちがわからなくても、なんとなく通じ合えたんだろう!?」
「う、うん。たぶん……腹話術だけど……」
「フフ、筋肉との対話は腹話術、か。アブ! 確かに『腹』話術だ。面白いことを言うねきみは」
謎の掛け声を繰り出しながら、楽しそうに泉田は微笑む。
やっぱり、泉田の言葉はわからない。謎だ。それがかえって面白くて、もふっと吹き出して笑った。
「泉田くんって面白い」
「なにを言ってるんだ。面白いことを言ったのはきみだよ」
笑い混じりに泉田はそう言う。泉田の口調から敬語が抜けてフランクになったな、と思ったは、思い浮かんだフランクという単語でまた吹き出した。
「ぷっ、うふ、ふふふふ……やばい、面白い! あーもう、泉田くんは楽しい人だな!」
「笑いすぎだよ」
「ごめ、ツボはいった、ひーっ」
「なんなんだきみは、もう」
無自覚の泉田はむっつりとくちびるを尖らした。普段キリッとしている泉田の子供じみた表情が、なんだか心地いい。かわいいなと思ってしまう。
ごめんごめんと手をあげたは、すこしだけ泉田に身を寄せた。
「怒らせたいわけじゃないんだよ。それでさ、よかったらちょっとお願いがあってさ……」
「怒らせる気はなくてもバカにしているでしょう。……うん、なんだい?」
やや不機嫌そうに眉を寄せながらも、耳をは向ける泉田は優しい男だ。
はくちびるを濡らし、少し照れながら泉田にしか言えない頼み事をした。昨日食べたポテトチップスの味が、まだ口の中に残っているようだった。
「筋肉じゃないんだけど、胃袋の命名もできる?」
昨日運動しすぎてお腹すいて間食しちゃって……。と恥じ入りながら補足するを見た泉田はきょとんとして、それから困ったように笑った。
「お安いご用さ。また、放課後にでもじっくり考えて差し上げよう」
じっくり考えて、という言葉に、は太ももに名前をつけられたときのことを思い出した。突如のスカートをめくり、筋肉と対話すると言いながら太ももを撫でた泉田。
今度はお腹までさわられてしまうのか。せめて服をめくるのは勘弁してほしいなと思いながら、下心のない純粋な瞳に苦笑した。
天然で生真面目な隣の席のクラスメイトが、は好きだ。胃袋にまで名前をつけてもらうからにはきっちりダイエットしないとなと、は決意を新たにしたのだった。
2015/10/11:久遠晶