血潮沸立つ宣戦布告


 放課後、タオルを取りに教室に戻ると、数人の男子が固まって話しこんでいた。

ってかわいいよな」
「ああ、わかる。走るとき胸揺れて、息荒くてエロいよなぁあいつ」

 なんてことはない雑談だ。
 クラスの女子に点数をつけてはやし立てる、低俗な会話だ。いやでも聞こえてくるそれらを聞き流しながら、自分の机からタオルを回収する。

「泉田はどうおもう? よく目で追ってるよなー」

 たまたま僕が視界に入ったのだろう。突然話しかけられ、僕は手を止めた。

「くだらないな」

 僕はわかりやすく不快そうに眉をひそめる。

「くだらないことを言い合う暇があるなら、すこしでも自分を磨く努力をしたらどうだい?」

 顎をあげてクラスメイトを見下すと、彼らはばつが悪そうに目をそらした。その表情で溜飲が下がる。
 僕は踵を返し、タオルを持って颯爽と教室を出た。
 すこし強く言い過ぎただろうか。いや、しかし事実だ。
 なにより不快だった。
 まっすぐ前を向いて走る彼女に、下世話な視線を向ける男がいることが。

 跳ねるように地面を蹴って、彼女が躍動する。その度に乳房が揺れていることなんて、気づきもしなかった。
 部活は違えど道を走るものとして、純粋に彼女を尊敬し感服していたから。
 僕が見ていたのは、自転車で追い越すとき目に入る、きらめく横顔だったから。
 その下で乳房が揺れていたことなんて、本当に知らなった。

 ああ。いけない。……僕はなにを想像しているんだ。

 目をつむって考えを振り払う。邪念は彼女に対する侮辱だ。
 これから主将として自転車部をまとめる身として、邪念はもっとも不要なもののひとつでもある。
 部室へ向かう歩を早めようとした時、廊下の曲がり角で誰かとぶつかりそうになった。
 くりくりした瞳が、僕を確認するとにっと細くなる。

「あ、泉田くん。部活おっかれー」
さん」

 狙ったかのように彼女が廊下の角から現れ、ぎょっとする。幸い動揺には気づかれなかった。
 彼女はポニーテールを揺らしてへらりと笑う。
 しまりのない顔は来年陸上部の主将になる身とは思えない。だが、似合っているとも思った。
 彼女はカリスマ性でもって人を率いるタイプではなく、いろんな人に支えられて上に立つ――そういうタイプのように見受けられたからだ。

「泉田くんはこれから部活か。頑張って。私は今日はミーティング。ノート忘れて取りにきた」
「お互い大変だね」
「いやいや、きみら自転車部と私ら陸上部は違うっしょ。すごいもんね自転車」

 苦笑しながら言って、彼女が教室に行こうとする。僕らの、三年の教室に。
 慌てて彼女の手首を掴んだ。
 教室ではまだ彼らが彼女の話題を続けているはずだ。聞かせたくはない。

「……? どうしたの、泉田くん」
「いや、ええと」

 掴んだ手首を困惑気味に見つめられ、慌てて手を離す。
 なんと言えばいいのだろう。ノートを取りに行くにしても、数分は待ったほうがいいと、どう伝えよう。

「きみは……」
「ん?」
「どういうチームを作る?来年」

 突然の質問に彼女が首をかしげた。
 しまった、気をそらそうとしたって無意味だ。僕は内心で頭を抱える。
 彼女は少し困った顔をして考え込み、ついで笑った。

「日本一ハヤいチーム」

 簡潔にそう答える。挑戦的な目だ。

「王者ハコガクは自転車部だけじゃないって、知らしめてやりたい」

 その言葉に血潮が沸立った。
 つまり、僕ら自転車部はライバル視されているのだ。
 自転車部は去年、総北高校に惜敗した。だから厳密にいえば箱根学園はもう『王者』ではない。
 彼女はそれを知って、あえて王者ハコガクと言っているのだ。

 つまり――今年は当然勝つんだろうな、と、言外に僕を挑発しているのだ。
 ライバル視され、挑発的な視線を送られることはレースの上で何度もあった。
 しかしこうして、自転車に乗らない人からこんな視線をもらうとは。
 キラキラして獰猛で、不敵な瞳だ。僕も自然と笑ってしまう。

「僕は……僕も日本一早くて、なにより情熱的なチームを作るよ」
「相変わらず詩人だね。変人扱いされて後輩から引かれないようにしなよ」
「変人扱いで構わないさ。背中を見せれば、みな僕に着いてきてくれる。アブ!」

 拳を握ると彼女も笑った。

「ほんと、泉田くんって面白いよね。これ誉め言葉だよ」
「きみは素敵な人だよ」

 口から言葉がついてでた。えっ、と彼女が驚いた顔をする。
 獰猛な視線がすっと薄れ、いつもの彼女の目になった。

「きみの走りはなにより真摯だ。一歩一歩を真面目に踏んで蹴り出す。丁寧さを怠らない。筋肉もよく脈動している」
「え?あ、はあ」
「きみを尊敬しているのさ。僕は」
「や、やめてよ泉田くん。いきなり誉めるなんて気持ち悪いなぁ」
「気持ち悪くたっていいよ。アブ!」

 彼女はなぜか照れ出した。
 口に出す必要もなかったのに伝えてしまったのは、先程のクラスメイトの会話があったからかもしれない。

「僕はきみのこと、ちゃんと見ているからね」

 純粋な視線で。邪な気持ちもなく、きみのひたむきさをちゃんと見ていると、伝えたくなったのだ。
 彼女の情熱をないがしろにして踏みにじるような――あんな、よごれた視線などではなく。
 真摯に道を走る背中を、横顔を、高みを見つめる気高い瞳を見つめていると、伝えたい。

「ふふ。呼び止めて悪かったね。それじゃあ、お互い頑張ろう」
「あ、う、うん。それじゃあね」

 彼女を急き立てながら、自分も部活へ向かう。
 なんとなく、今日はいいタイムが出るぞ、という、確信があった。
 今日も晴天、自転車日和だ。





2016/11/18:久遠晶