牙を隠す捕食者

*本誌で小鞠の過去が明らかになる前に書いたものなので、キャラ解釈・設定に原作との相違があります*



   ***



 僕のこの性癖は異常なのかとちらりと悩んだこともあったけれど、誰に迷惑をかけてもいないのだからとすぐに打ち消した。
 別に、どうだっていいだろう。問題なんてないはずだ。

「小鞠ぃ、マッサージ頼むわあ」
「はい、わかりました。よろこんで!」

 僕はにっこり笑ってセンパイの足に触れる。固く強張った筋肉は質が悪すぎて触るのも不快だけれど、センパイのご命令なのだから仕方ない。御堂筋さんは『そんなザクの相手しなくてええで』と言ってくれるけれど、進んで敵を作るのは僕の本位じゃなかった。
 御堂筋さんはとても早くて、なによりとてもいい筋肉を持っているけれど、社交性というものがまるでない。まあ、そういうところが嫌いじゃないんだけど。
 質の悪い筋肉をマッサージするのは時間の無駄に思えるし苦痛だけど、これを経た次のマッサージが楽しくて仕方なくなるから、最低な筋肉にも使い道がある。
 練習を終えたあとの部室は部員でいっぱいになって、マッサージャーの僕はいろんな人に呼ばれて走り回る。

「いや~小鞠が居てくれてよかったぜ」

 いつもありがとなと親しげに僕の肩を叩くセンパイの名前はいまだに覚えられない。興味がないから仕方ない。

「ありがとうございます」

 あくびをかみ殺してにっこり笑った。
 結局この日は最低筋肉のマッサージに追われて御堂筋さんのマッサージをすることはかなわなかった。口直しが出来ず、僕の指はうずうずとうごめいた。
 欲求不満のときはロードバイクに乗っても筋肉のことばかり考えてしまう。ペダルを回し、市街地を駆け抜けていると、夕焼けの中で見知った後ろ姿を見つけた。
 普段なら挨拶もせずに通りすぎるところだけど、今日の僕は違った。考えるより先に指先がブレーキをかける。

さん」
「あ、小鞠くん。こんばんは。部活帰り?」
「ええ。さんは自主練ですか?」

 お行儀よく、草食動物みたいに笑って見せるとさんも笑い返して頷いてくれた。ジョギングしていた足を止め、僕との会話に付き合ってくれる。

「こっちもそろそろ選抜大会が近くてね。追い込みかけないといけないから」
「精が出ますね。でもあんまりむりしないでくださいね」
「ありがと。小鞠くんは、チャリ部のサポート頑張って」

 本当は出る予定なんですけどね、インハイのレギュラーで。とは言えない。
 さんは疲れたように、んん、と肩を回した。待ち構えていたしぐさに僕は飛びつく。

さん、お疲れならマッサージしましょうか?」
「え、いいの」
「これでも部活ではマッサージャーなんですよ。追い込みで疲れて、本番で実力出せないなんてだめですよ」
「んー…じゃあ、お願いしていい?」

 おずおずとさんはそう言った。
 僕は舌なめずりしたいのをこらえて「もちろん」と微笑みかける。
 さんのアパートのそばで彼女を見かけたのは、このうえない幸運だった。

「散らかってるけど、ごめんね」

 初めて入るさんの部屋は狭いけれど、とても整然としていた。きっとふつうの男は、さんみたいな人の部屋に招かれたら緊張するんだろう。
 どことなくやさしい香りがするこの部屋に来たがる男子は大勢いる。そして、さんに欲望を叩きつけたい男も。
 僕には到底理解できない。けれど、意味が違っても僕はさんの部屋に入ることを喜んでいる。
 あかずきんを待ち構える狼はこんな気分なんだろうか。それともこれは、子ヤギの家に入ろうとする狼の気持ちだろうか。
 どちらにせよ、僕は捕食者であることには変わりない。

「じゃあ、ごめんね、おねがいね」

 ベッドに横たわって僕の指を待ち構えるさんは無警戒だ。
 仮にも男を、誰もいない一人暮らしのアパートにあげて、ベッドに寝転がって目を閉じるなんて、信じられない。
 だけど、それでいい。警戒されたら困る。
 緊張する筋肉の固さは嫌いではないけれど、いま僕が触りたいのは違う。

「失礼しますね」

 僕の欲望なんて気付かないんでいいんだ。震える指で肉に触れた。

「……ぁっ……」

 この肉に触れる度、吐息をこらえるのに苦労する。
 さんの筋肉は無駄がなく柔らかい。よくしなる。
 鍛え上げられた全身の筋肉が、陸上の名選手である所以だ。
 息を荒げないようにしながら肩をもみほぐしていく。本当なら全身の肉に触れて堪能したいけれど、残念ながらさんとの関係はそこまで進展していない。
 寝そべって僕の指を歓迎してくれてはいるものの、僕とこの人は単なるオトモダチ。
 だから、肩と腕と腰以外に触れちゃいけない。
 大腿四頭筋にもヒラメ筋にも、副直筋にも触れちゃいけない。
 僕は昔から人間に興味がなくて、その皮を剥がした奥にある筋肉に興味が向くタイプだった。だから恋愛も理解できないし吐き気がする。御堂筋さんとはその辺りで気があった。
 その僕が、この人とは付き合ってもいいなと思っている。すごいことだ。
 この人の触ったことのない筋肉に――未開の地に触れる権利を得られるなら、多少の不快感は我慢できる。無害な小動物を演じることも苦ではないし、求められればキスやセックスだってしたっていい。この肉に触れ続けていいなら。
 この肉に触れていい権利が、手に入るなら。

「小鞠くんがこうしてマッサージしてくれるから部活頑張れるよ~」
「フフ、嬉しいですね」

 相槌は震えていないだろうか。気持ち悪がられたら築き上げた立ち位置が台無しになってしまう。
 無害な弟みたいな男の子。そういうポジションに収まっているから、さんは無警戒で居てくれるのだ。

 さんとの出会いは、半ば一目ぼれのようなものだった。
 高校の入学式のあと、自主的に走りこんでいるさんを見つけた。陸上用の短パンから見える太ももとふくらはぎの、繊細な筋肉の動きに僕は見とれた。衝撃が走った。
 しなやかに形を変えるそれはダイヤの原石のようで……勃起しかけたことをこの人は知らない。
 肩を揉んでいる今だって、このまま手を滑らせて抱き締めて大胸筋や背筋の感触を全身で直に感じたいことを、この人は知らない。
 知らなくていい。
 こんな風に思っていると、これが恋ってものなのかと勘違いしそうになる。
 吸い寄せられるように無防備な髪の毛に口づけをした。シャンプーの花の香りが不快で鼻につく。
 普通の男は好きな女の髪の匂いにグッとくるらしい。だから、やっぱり恋ではないんだろう。
 僕が興奮しているのはこの人ではなく、この人の筋肉なのだ。それを再確認して、僕はうっとりと笑った。

「終わりましたよ」
「きもちよかった。ありがと小鞠くん」

 えへへとはにかむさんに、僕も微笑みを返した。
 誰もがときめくだろう笑顔も、僕にとっては気持ち悪いだけだ。でもこの人の筋肉は最高だ。極上なんだ。
 女の筋肉は鍛えられてなくて最悪なものが多いけれど、この人の筋肉だけは光り輝いている。
 だから、礼を言うのはこちらの方なのだ。
 おかげさまで今日も自慰のネタには困らない。





2016/01/03:久遠晶