くだらない夢とくだらないプライド



 幼稚園児の頃から、走るのが好きだった。
 靴を脱いで裸足になって、地面を蹴りあげて走ればどこまでも行ける気がした。流れていく景色がどこに続くのかしりたくて、頬にあたる風を捕まえたくて野山を駆けた。
 全身のバネを使って走るときの筋肉の軋みが、血液の脈動が、肺の悲鳴が、私が生きてると実感させてくれるのだ。
 だから、きっと。

「先天的に身体に欠陥があるんです。激しい運動は控えた方がいいでしょう」

 眼鏡をかけたお医者さんの言葉を聞いたあのときから、私の生は止まってるんだろう。
 小学校の低中学年では、マラソン大会で何度も優勝した。かけっこでは負け知らずで、運動会ではいつもアンカーを任されていた。
 体に不調はなかった。それなのに、小さな心臓だけがついていけずに悲鳴をあげて膝を折らせる。本気を出してないのに。筋肉は疲れてもないのに。破れそうに鳴り響く心臓の音が耳元で聞こえてうるさい。それでも立ち上がろうとすると意識が途切れる。

 人生は諦めることの連続だと言う。その通りだと思う。諦めて、折り合いをつけて、そこそこのところで満足しないといけないのだ。幼くしてそれに気づいた私は、なんとまぁ生意気な子供だったんだろう。


   ***


 パチリと目を開けると、白い天井が視界に入った。消毒液の無機質な臭いが鼻をくすぐる。病院だ。
 私……私は、どうしてここに。
 ああそうだ、また発作が起きたんだ。
 運動しなければ生活に支障はないけれど、逆に言えば運動すればすぐに倒れてしまうのが私の身体だ。
 放課後、ロードバイクに乗って車道を駆ける前のめりの背中を見かけた。部活のあとだと言うのに個人練習に余念がない一年生エース。
 まっすぐ前を見て、歩道の私など気づきもしない。その横顔を見て心臓がどくりと脈打った。

 ――楽しいのかなぁ、自転車。
 ――楽しいんだろうなぁ、自転車。

 羨ましいなと、心からそう思う。サイズの合わないロードバイクを無理にのりこなす彼の姿を目で追ってしまう。
 下りの急な坂道に差し掛かった瞬間に見えなくなって、無意識のうちに足が動いた。

 やだ、まだ見てたい。見たい。あれがどこまで行けるのか。行った前になにがあるのか、私も。
 なにも考えずに坂道を全力疾走して――そして発作が起きた。
 経緯を思い返すに、なんて間抜けなんだ。自業自得だとあきれ返る。

 誰かが救急車でも呼んでくれたんだろうか。お礼、しないと。
 上体を起こしてベッドから出ようとしたとき、病室の扉が音もなく開いた。

ちゃん、起きたんか」
「石垣センパイ」
「……お互いくん付けで呼べって言うとるやろうが」

 石垣先輩の後ろから顔を出した御堂筋くんに息が詰まる。生気のない顔には人間味がなくて、どう対応すればいいのかわからなくなる。
 なんで、二人がここにいるんだろう。そういえば意識を失うとき、誰かに声をかけられた。それは御堂筋くんの声だったような気がする。と言うことは御堂筋くんが救急車を呼んでくれたんだろうか。

「お二人が私をここに運んでくれたんですね? 本当にすみません!練習の邪魔を――」
「や、や、謝らんといてや。ちゃ……くんは大事なマネージャーやし、当然のことをしたまでや。いま、お母さんがお医者さんと話しとるで」

 どうやら予想以上に大事になっているらしい。お母さん仕事中断させてごめんなさい。
 口酸っぱく怒られることを覚悟して青ざめていると、石垣さんの異変に気づいた。目が合うと、気まずそうに視線をそらして、石垣センパイは口をつぐんでうつむいてしまう。
 どうしたんですかと言おうとして、意味を察して苦笑した。

「母に言われましたか」

 私のからだの事情を知ったとき、いつもみんなの反応は同じだ。優しい人は気まずそうにうつむいて黙りこむ。強い人はおまえの分まで走ると誓ってくれる。
 石垣センパイは前者だ。この人は優しい。実力があるとはいえエースの座を一年生の御堂筋くんに奪われ、命令されてもじっと耐える。耐えるのがチームのためだと御堂筋くんに着いていく。
 その石垣センパイの人徳で、他の三年・二年生も御堂筋くんに反発を押し込んで付き従う。

「うん……すこし、聞いた。身体のこと……」
「いいんですよ、日常生活に支障はないし」
「すまんな、なんも知らんで、色々仕事押し付けてもうて」

 石垣センパイは、優しい。
 身体の事情でスポーツを諦めざる得なかった私の気持ちを思い、察し、胸を痛めてくれる人だ。
 だから、知られたくなかった。自分と相手の差を見せつけられるようで、優しさがトゲのように刺さって痛い。
 だから、スポーツとは関わりたくなかったんだ。

 御堂筋くんに自転車部のマネージャーを押し付けられたのは、些細なきっかけからだった。御堂筋くんの求めるもの――他校の自転車部の情報を、たまたま私が持っていただけだ。
 有無を言わせない脅迫めいたやり口に私は反発することもできなかった。不満はある。それでも押し付けられた大量の仕事に私がめげずに済んでいるのは、石垣センパイによるところが大きい。
 御堂筋くんは、石垣センパイを――いや、自分以外のすべてを見下して、バカにしているようだけど。

 気まずそうに私をうかがう石垣センパイの後ろで、御堂筋くんはじっと私と石垣センパイを眺めていた。
 いつもと同じように見開かれた瞳は黒々と濁っていて、わたしはどう心を身構えればいいのかわからない。御堂筋くんはいつも、私を警戒させるだけ警戒させて、予想だにしないところからの接触――あるいはそれは攻撃だ――を繰り返す。

 御堂筋くんも私の身体のこと、お母さんから聞いたんだろうか。
 驚いていたであろう石垣センパイの隣で、いまと同じように目を見開いていたのだろうか。話を聞いてんだか聞いてないんだかわからない無反応を貫いていたのだろうか。

 私はしばらく、御堂筋くんの内面を見通したくて彼を見ていた。そうしていると、その隣にいる石垣センパイの気まずそうな顔がどんどんと濃くなっていく。
 あっ、そうか。私は勝手に会話が終わったつもりになっていたけれど、石垣センパイのなかでは続いてるんだ。無視されたと思っているんだ、石垣センパイは。

「ま、マネージャーの仕事がきつかったからじゃないんです!!
 帰り道倒れたのは私が走ったからですし。あぁそれと、私もうスポーツやりたくないし、身体のことも隠してる訳じゃないからそんな気まずそうな顔しないでください」
「ほんまか?」

 どこの話にかかった『ほんまか?』なのだろう。そう思いながらこくりとうなずく。私は見栄を張った。
 私の嘘の数だけ、石垣センパイの表情が和らぐ。

「子供の頃は運動好きだったけど、今はインドア派なんです。むしろこの身体を理由に動かなくて済むから、ズルできて楽、みたいな、」
「そ、そうか……まぁ、ほんなら……」
「昔は好きでしたけどねー。いまはもう、私の分までがんばって、みたいな」
「オマエら、ホンマキモいな」

 ずっと黙っていた御堂筋くんが、不意に声をあげた。イヤそーに細まる黒々とした瞳と目が合い、息が詰まる。石垣センパイと御堂筋くんは未だ扉近くで突っ立っているというのに、狭い病室内に御堂筋くんの存在感が押し寄せてくる。

「それあれやろ、友情ーゆうやつやろ。ワタシの分までスポーツ頑張って、おうわかった優勝するで、みたいな、そういうくだらん同情やろ?
 そういう要らんもん背負った気になってつよなった気になってるヤツ見てるとホンマイラつく。石垣くぅん、下らん感傷は捨てろっていつも言っとるやろ。くぅだらない感傷してる暇があるならペダル回したほうが百倍マシやで――」

 私と石垣センパイの会話が、よほど御堂筋くんの神経を逆撫でしたらしい。御堂筋くんは石垣センパイに顔を近づけ、早口になにかを捲し立てている。たぶん自転車に関することなんだろうけど、詳しくない私に専門用語はわからなかった。
 圧倒される石垣センパイが『悪かった』と――半ば反射的な言葉に思える――と目をそらすと、御堂筋くんはやっと満足したらしい。機関銃のような言葉の雨が止む。

 代わりに、石垣センパイに向いていた顔がぐりんっと動いてぎょろついた目が私を捉えた。
 御堂筋くんは、不気味だ。
 高身長独特の圧迫感とハ虫類のように長い手足は憧れよりも先にぎょっとしてしまう。大きくてぎょろついた目は常に見開かれて、たとえ笑っていてもうすら寒いなにかを感じる。
 感じる威圧感は、ヤンキー相手に感じる暴力的なものじゃない。音もなくふつふつと沸き上がる、真夜中に部屋に入り込むすきま風のような、冷たい恐怖だ。
 目を見開いて口を開けて笑って、御堂筋くんは私を静かに指差した。

「キミ、陸上諦めたわけやないんやろ」

 小さな小さな私の心臓が、ヒュッと怯えた。

「そないなカラダでナニ出来るつもりなん。くぅだらない夢にしがみついて、発作起こして、倒れて、ずいぶんな態度やな」

 先ほど石垣センパイに食って掛かったときと、明らかに態度が違う。御堂筋くんは言葉のひとつひとつを区切って、ねじ込むように私にぶつける。
 私は笑みを貼り付けたまま、御堂筋くんの言葉を受け止めないように聞き流すので忙しい。

「倒れて迷惑かけたのは悪かったと思ってる」
「心折れとんのやろ。ならくだらん意地と嫉妬すんのやめえや。弱いくせに、ザク以下のできそこないが――」
「おいっ御堂筋っ! さすがにそれは――」
「キモすぎるって言っとんのや!!」

 怒号が室内に反響して、しんと静まって音がきえた。
 腕をつかんで制止する石垣センパイの手を無理やり振りほどいた御堂筋くんは、目をぎゅっと細めて私を睨む。
 大きな目を見開いて笑っている御堂筋くんにおいて、その鋭い目つきとくいしばってへの字に曲がった表情はすさまじく迫力がある。
 背中にふつふつといやな汗が伝う。御堂筋くんの気配と怒りが肌に刺すようだった。
 怒られてる。
 陸上にいまだにあこがれて、しがみついてることを。希望を断てないことを。いつかまた、あのゴールにたどり着くことを夢見ていることを。
 感じるより先に視界がにじんだ。ぽろりと涙が、右目からあふれた。

「御堂筋くんは純粋だね」
「ハァ!? 何言うとんのや、キモ、キモ、キモ。泣いたら許されるとおもっとんのか」

 いかにもおぞましそうに御堂筋くんは自分の肩を抱く。
 石垣センパイは私の涙にぎょっとして、御堂筋くんを止めようとしてうろたえる。

「そうだよ。まだ、夢見てるの。諦めきれないんだよねぇ、どうしても。折れ……そう、『折れ』か。折れてるのにね。諦めてるつもりなのに、考えちゃうんだ」

 御堂筋くんはまたなにか言おうとした。それより先に、私が言葉をつづける。

「ふつうの人はね、私を自分と重ねるか、比較するかするものなんだよ」

 さっきそうされたように、私も御堂筋くんを指で指し示した。返事がないので、私はベッドから降りて、窓際へと歩み寄る。道の向こうで、陸上部の掛け声が聞こえる。ここはマラソンのコースなのだ。
 ふつうの人は、自分と重ねるか比較するものだ。
 自分も唐突にスポーツ生命を断たれたらどうするだろうか、と自分と私の境遇を重ねるか、あるいはこうでなくてよかったと安堵する。そういうものだ。

「そういうのすっ飛ばしてさ、私を怒れる人って、そう居ないよ。しかも、スポーツしてる人が。挫折『させられた』私の気持ち、多少でも想像できる人が、そんなこと言うなんてさ」
「わかりたくもないわ、挫折『した』人間の気持ちなんか」
「まあ、スポーツやるのにはその共感は必要ないよね」

 窓を開けるとそよ風が差し込んだ。気持ちいい、と感じる。この風を切って走れたらどんなにかステキだろう。

「はっきり言って私、御堂筋くんのこと、どう接すればいいのかわかんなくて苦手だったんだけど」

 振り返ると、御堂筋くんはいぶかしげに私を見つめていた。会話の着地点がわかってないんだ。わからないかなぁ。こんなに単純明快なのに。
 まだ言葉を重ねようとしていた私は、隣の石垣センパイがいよいよ青ざめているのを見て結論だけ話すことにした。
 御堂筋くんは純粋。そして、平等な人だ。

「御堂筋くんは結構いい人だね」

 ぽかんと口を開けた二人を見て、私はけたけた笑ってしまった。
 唖然とした沈黙と表情のあと、絞り出すように吐き出された『キモいわ』にも、もう、傷つくことはなかった。そうして、御堂筋くんの不気味な外見にもひどく好感を持ちはじめた自分に気づく。
 自転車部のマネージャー活動も、苦ではなくなりそうだ。
 満面の笑みを浮かべる私は、久しぶりに本気で笑っていた。





2015/10/06:久遠晶