馴染みのサイクリングショップにて
店じまいをして明日のためのもろもろの準備を済ませていると、半開きのシャッターがガラガラ開く音がした。
顔をあげれば、大きな身体をかがませてシャッターをくぐって店内に入ってくるところだった。
痩せた長身の少年だ。愛車のデローザを引きながら、挨拶もない無愛想な目が私を射抜く。
「チェーンが切れた」
「今日はもう店じまいだよ。翔くん」
「ボクとおねーさんの仲やんか」
「そう言うのはね、助けるがわが言うのであって求めるがわが言っちゃいけないのよ」
カウンターで帳簿とにらめっこしていた私は苦笑して立ち上がった。なんだかんだ言いつつも求めて応じてしまう。
しがない街の自転車屋は、地域密着型だ。閉店を理由に追い返してご贔屓さんを怒らせてはたまらない――単なるいいわけだ。
甘やかしていると、自分でも思う。
小さな店の奥に上がれば、ささやかな生活空間が広がる。翔くんは店と家を繋げる階段に腰かけ、愛車を修理する私をじっと見つめている。
スタンドに前輪を浮かし、自転車のチェーンを外す。ギアに引っ掻けて長さを調節し、ペダルを回して動くか確認。
「チェーン以外の不調は?」
「あー……ブレーキがなんか違和感。効きにくくなってん」
「そろそろワイヤー交換しといた方がいいかも。そこも見とくね」
「お願いするわ」
チェーンとワイヤーの交換も終え、その他に異常がないか点検する。
改めてみると、翔くんのロードバイクはちょっと異端だ。子供用の小さなロードバイクを、大人が乗れるようにひどい改造をしている。大きく前にせり出した特注のハンドル、通常よりもよっぽど長く高く上げたサドル。長身が小さなロードバイクに跨って疾走するさまはアンバランスとしか言いようがなく、巷でも『不気味』と気持ち悪がられているらしい。
「サドルの位置、前より上がってる。また背伸びたの」
「あー……ガッコで測定したときは180になっとった」
「中学生でその身長かあ。膝とか痛くならない?」
「ペダル回しすぎなのか成長痛なのか、ようわからへんよ」
「痛いなら無理に自転車乗らないの」
車体やハンドルにも問題はないことを確認して立ち上がると、階段にいる翔くんに歩み寄る。靴と靴下を脱いで体育座りでくつろぐ姿は、なんとも言えず面白い。細身とはいえ長い手足がきれいに畳まれてコンパクトになっているさまに笑いそうになってしまう。
緩みそうになる口元を引き締めてへの字を作る。以前『かわいいね』と褒めたら一ヶ月口をきいてくれなくなったことは記憶に新しい。
「練習で膝壊したなんて、笑いごとにならないぞ。キミの場合そんだけ急激に体が成長してるんだから、ゆっくり慣れていかないと。なにかあって自転車乗れなくなったらどうするの」
「ハイハイ」
あっ聞いてない。視線を横に反らして聞き分けのいい態度は、話を聞き流しているときの御堂筋くんのクセだ。
ハイハイ、じゃないよもう。
身体は、自転車と違って換えがきかない。不慮の事故で身体を動かせなくなる恐怖を、翔くんは知らないのだ。
「……おかあさんとの約束はしってる。でも目先の勝利に囚われすぎるのは問題だわ」
数年前に病気で亡くなった翔くんのおかあさん。処置室に運ばれる直前の会話を胸に、翔くんはロードバイクにまたがっている。
わたしも病室にいたから知っている。御堂筋くんと一緒に、なにもできなかったからよく覚えている。
「おねーさん、まだ怪我治っとらんの」
「へ?」
「カウンター突っ伏して頭押さえてた」
「ああ…それは単に、うたた寝してただけ」
高校のときに事故に遭い入院した。雨が降るとその時の怪我がうずき出す。でもそれだけで、日常生活に支障はない。支障がないラインにまで克服したという意味で、もう二度とゴールラインを越えて喝采を浴びることはできないだろう。
本来なら歩けるようになるかどうか、というレベルの大ケガだった。
病室のベッドの上でやさぐれて腐っていた時に翔くんのおかあさんと知り合い、ずいぶんと救われた。
だから私は、おかあさん亡きあとの翔くんを、ちゃんと見守る義務がある。元自転車乗りとしても、才能ある有望な若者をほおっておくわけにはいかない。
「ボクゥはおねーさんと違って頑丈やで」
「そーゆー問題じゃない」
「あだっ。痛いわアホ」
軍手を脱いで頭を軽くはたくと睨まれる。
「アホで結構。そのアホに叩かれるアホはキミだ」
「……べつに、ちゃんとペースは考えとるわ」
「嘘つけ」
「あだだだだ。耳引っ張んなキモイわオイル臭い」
「オイル臭いは誉め言葉よ、翔くん」
耳を引っ張るのをやめて、翔くんの隣をあがって生活空間にはいる。
畳の上にちゃぶ台を置いただけの居間は我ながら質素だ。祖父から受け継いだ古びた台所も食器棚も嫌いではなくて、むしろ仕方なく買い換えたプラズマテレビのほうが気に入らないけれど。
「お茶飲んできなさい。キミには適切な休憩ってものが必要だ」
「ちゃんとインターバルは入れとるわ」
「心のゆとりって意味よ、お姉ちゃんが言ってるのは」
急須を用意してお湯を沸かし始める。背後で、観念したようなため息が聞こえた。
こうして私と時間を共有してくれるのは、相応に友人とおもわれているのか、馴染みの自転車屋の主人だからなのか。
前者であればいいけれど、ロードレースのために不要なものは切り捨てる彼が、私へ友情を感じているとも思えない。
昔はちゃんと友達だったと思うけど、翔くんが成長するにつれて不安になる。
――翔くん、あんまりペダル回してないで、友達とも遊んだ方がいいよ。
――友達なんか要らんわ。ロードレースに必要ないやろ。
昔自転車に入れ込みすぎる翔くんを心配したら、黒々とした大きな瞳がためらうことなくそう言った。結局勝つのは一人なのだからとチーム間での繋がりも絆も否定しているらしい。一利あると言えばある。
普段ならそれも思春期だから、とかもっともらしい理由で納得する。いつかは大切さに気づくだろうと。
翔くんを心配になるのは、このまま頑なに突っ切ってしまいそうだからだ。まっすぐで純粋な子だから、自分を傷つけながらも前に歩こうとするから。
ため息をついて言葉を飲み込む。
言いたいことはあるけれど、あまり介入しすぎるより遠い位置から見守るべきだ。
店に来たときはなにも言わずに休ませてやろうと心に決めている。
「使ってくれてるのね、私の贈ったデローザ」
「……練習用やからなぁ」
「うん、使い倒して、ぶっ壊してくれても構わないからね」
翔くんの愛車はお母さんが生きていた時からずっと変わらない。お母さんが誉めてくれた自転車でゴールしたいのだ。直接聞いたわけじゃないけど、子供用自転車に頑なにこだわる様子を見ていればすぐ察せる。
替えのきかない思い出の品になにかあったらたまらないと、練習用に同じ自転車を贈った。
「しっかり使っとるわ」
「よかった」
お茶を入れてちゃぶ台に置く。湯のみに息を吹き掛けて軽く冷ます翔くんのしぐさが、私は好きだ。
ロードレースに心血を注ぎすぎてそれ以外のところの人間味って言うのが欠如してるから、人間的な仕草に親近感を覚える。
おせんべいをハムスターみたいに両手でもって食べる姿も愛らしい。
私の知ってる小学生だった頃の翔くんと印象は離れていっているけれど、こういうところは変わらない。
「たべるときは口閉じなさい」
「いちいちうるさいわ」
睨むとしぶしぶ口を閉じる。
こうやってお姉さんぶれるのも、今だけの間だ。高校生になったら大人になるのなんてあっというまだ。
「ワイヤー交換、代金ほんとにええの」
「いいよ、サービスにしといてあげる。そんかわりひいきにしてね」
「イヤヤ」
「かわいくないわねー」
私がそういうと、翔くんは大きな口をカパッとあげて笑った。真っ白な歯が剥き出しになる。
「ほなまたな」
愛車にまたがり、ペダルを数回逆に回してチェーンの感覚を確かめたあと、翔くんは笑った。
歯と歯をカチンと打ち合わせると前を向く。ペダルを踏み込んだ瞬間、あっという間に見えなくなる背中にため息がこぼれる。
山も平坦も早くて、初動の加速も淀みない。いますぐにだって、エースとしてインターハイに出れる。優勝だって絵空事じゃない。
友達や恋人、思春期らしい遊び。そう言った心のゆとりを切り捨てた結果の実力だ。
そうやっていつかは私の元にも来なくなる。
夜に溶け込んだ背中をいつまでも見つめながら、それまではいつでもお茶を振る舞えるようにしておこうと決意を新たにした。
2015/10/06:久遠晶