キモチワルイ女
その子は、一言で言うと『キモイ』子やった。標準語での自己紹介もキモかったし、転校生やからと周りを囲んで囃し立てるクラスメイトもキモかった。
何より集団の隙間から、ひとり自分の机に座っとるボクを見てにこりと笑いかけてきたときのすきっ歯が――ホンマにキモかった。
「みどーすじくんの名前って、はばたくって書いてあきらって読むの?」
「…どうでもええやろ」
そいつはなんでかボクに絡んできた。勉強もよくないスポーツもよくない、クラスで浮いてるボクを、その子なりに心配したんやと思う。ありがたいとは思わへんかった。
人を助けた気になって優越感に浸りたいだけのくだらん行為でしかないから。
そう言うんが果てしなくうざかった。やたら引っ付いてくるその子も、『自転車にばかり乗ってないで勉強しろ』と言う周りの大人も。それがイヤで猛勉強してそこそこ成績あげて黙らせた。実際自転車の戦術組み立てるためにも勉強は必要やったから、別によかったけど。
「みどーすじくんって自転車早くてすごいねぇ」
学年が変わってもその子はボクにまとわりつく。
優越感に浸りたいだけと思っとったが、この頃になるとどうやら違うとわかる。日に日に増える手足のアザは苛烈さを増していたから。ボクみたいな落車の怪我やない。いじめられとるんや。
すきっ歯笑顔もめっきり見なくなった。余計にキモい。
「みどくんって、とまと嫌いなん」
その子が首を傾げて、トレイのなかのトマトを指差した。
椅子に後ろ向きに腰かけて、背もたれに顎を置いて、ボクを覗きこんどった。
「キミィは」
「うん」
ボクから話しかけることは珍しい。
フォークで真っ赤なトマトをつつくと、トレイの上でコロコロ揺れた。
窓の外から生ぬるい風が入り込んでくる。カーテンが膨らんで、また戻る。遊具で遊んどるヤツらの声がうるさい。
「ボクとおって楽しいの」
その子は目をぱちぱちさせて、困った顔をした。どうしてそんなこと聞くの。そんな顔。
なんでそんな顔をするんやろう。当然の疑問や。ボクはその子に優しくしたことはないし、いじめられてるとこを助けたこともない。
理解できないもんはキモい。その子のことを理解したいとは思わんかったけど、気にはなった。
「ボク、薄っぺらい友情ごっことか嫌いなんよ。いじめられたくないなら、ちゃんと守ってくれるやつに媚びぃや」
「みどくん、わたしは、」
「ボクはキミのことどうでもええから」
本心やった。だけど、はっきり口を出すのはちょっとだけ胸が痛んだ。
ロードレースはすべてを削って削って勝利を掴む競技。その子と友情ごっこしとる暇はない。
だから、その子とおったらあかんかった。
「迷惑なんよ。キミィ、キモいし」
べっと舌を出して吐き捨てると、その子はぐっと眉を寄せて口をつぐんだ。去年なら、その子はボクがなに言ってもにこにこすきっ歯をみせて笑ったと思う。
ボクの言葉に真剣に傷つくぐらいには、すでにその子の心はズタズタやったんやと思う。
痩せほそってガサガサの手が、背もたれの上で小さく震えた。そういうしぐさだけ、お母さんに似とる。チクショウ、思い出させんな。
泣くかな、とボクは思った。泣かれたらボクが悪いことになるんやろうか。
オンナが泣くと、事実に関係なくオトコが悪いことになる。オンナのこすずるいとこやけど、もって生まれたもんの有効活用かもしれん。確かに正しい使い方や。
クラスメイトのくだらんケンカやったらどうだってエエけど、自分が非難の対象になると思うと面倒や。
「あたし、あたし、あたし……は……ただ……」
焦ったり怒ったりすると、おんなじ言葉を繰り返すのはその子のクセやと知っとる。クラスの男子にドモリを囃し立てられて、やめてやめてやめてとまたおんなじ言葉を繰り返して笑われとるのを、ボクは教室の隅っこでよく見てた。
その子は震えた手を持ち上げた。給食のトレイの上の、フォークに突っつかれて果肉が破けた不味そうなトマトを、人差し指と親指でつまむ。
ひょいと舌の上にのせて、するりと口のなかに隠してしまう。白い歯が果肉を噛み千切るのが、くちびるの隙間からちらりと見えた。
「がんばってね、自転車」
目を伏せるその子はやっぱりキモい。
その子はそれきり黙りこむとそのまま立ち上がって、本来の自分の席へと戻っていく。
ボクはその背中をじっと見ていた。
小さくて薄い肩。ボクの身体も薄い方やけど、その子はそれ以上や。骨と皮だけ。筋肉がなくて、シャツの上から骨が浮き出とるのがわかる。給食はあんなにガツガツ喰うのに。家で食べてないんや。
この一週間後に、その子はどっかに転校してった。
家のリコンとか親戚に引き取られるとか噂は一瞬だけ流れたけどすぐになくなった。それぐらい、誰も関心を払ってない子やった。
服も身体も小汚くて、卑屈で、面倒で。苛められんのもしゃーないな、と、傍目からも思ってしまう――その子はそういう、一言で言えば『キモい』子で、そんな彼女のすきっ歯笑顔が、ボクはホンマに嫌いやった。
***
はっと目を開けると、白い天井が目にはいった。病院? 妙に懐かしい夢を見た。ぼんやりした感覚は、意識が浮上してくに従って正しい記憶を取り戻していく。
ボクはインターハイにでてたはず。そんで、ブタ泉くんと勝負して――。
「あ、起きた?みどくん」
隣に誰かが座っとった。見慣れんセーラー服を着た黒髪の女が、ボクに笑いかけとる。
「18時間も寝てたんよ」
誰やこいつは。馴れ馴れしい。
きやすく話しかけんなと言おうとして、喉がカラカラになって声がでない。代わりに舌だけが口の外でべろりと動いた。
そんなボクを見て、その女はふふっと微笑む。
ちくしょ、身体も動かんわ。
その女はサイドテーブルに手を伸ばすと、コップを手に取った。寝てても飲めるように急須の先がストローのように伸びた、変な形のコップ。お母さんが時々使ってたソレ。
「吸って。そうすれば飲めるから、蒸せないようにね」
名前も知らん女に介助されんのは屈辱やったけど背に腹は変えられん。ストローからちゅうちゅう水を吸う。まぁずい。
「インターハイ、お疲れだったね」
「……負けたんか、ボクは」
「三日目の中途リタイアが負けたに入るなら、負けだね」
負けに決まっとるやろ。
結局ボクが勝ったのは一日目だけやったってことになる。しかも同率一位や。そんなもんに意味はない。完全勝利にしか意味はなくて――二日目にそれが途切れたあと、それでも三日目に臨んだってのに。
「かっこよかったよ、自転車かっとばすみどくん」
「ハァ?」
かっこいい? 誰が!? ボクが!?
アホやろこいつ。ボクの走りはいつだって、本質のわからんアホどもから『キモい』と言われ続けてきた。かっこいいなんて世辞でも言われたことあらへん。
それをこいつ、さらっと。美的感覚狂ってんとちゃうか。
「気迫がすさまじかった。私は運動部でもなんでもないから励ますのも慰めんのもヘタやと思う。から、これは単なる私の感想ね」
淡々とした女や。穏やか~な、いけすかん笑みが張り付いとる。どこまで本気で言っとんのや。つうか誰や。
「お前だれ――」
「おおっ御堂筋起きたんかー!」
言葉が終わるより先に間抜けな大声が響いた。ドアを無遠慮にあげた石垣クンが、キモい目をキラキラさせながらボクを見とる。後ろには水田クンたちもおった。
どやどやと病室んなかに入ってくる。
女が石垣クンに軽い会釈をした。ボクゥの寝とるベッドから腰を下ろして立ち上がって。
「病院内ではお静かに」
「あっすんまへん……って、だ、誰や?」
「もしかして御堂筋くんの彼女すか?」
水田クンが納得したように目を輝かせた。
んなわけあるかい、というボクのつっこみが、井原クンたちのつっこみと重なる。
女は嬉しそうに頬を持ち上げ、手を振った。
「そんなんじゃないですよ」
「つうか、キミィ、ホンマ、誰なん……」
疲れた。もっかい寝たい。喋る気力もない。石垣クンたち出てってくれんかな。
ボクのつぶやきに、その女は目をぱちぱちさせて「わからない?」と首をかしげた。嬉しそーなキモい顔。
直感的な心当たりはあった。けど、記憶のなかの面影と顔立ちがあんまり違いすぎて確信がもてん。
「ホントは箱学の応援せんとあかんのに、みどくんの応援しとったんようち」
それでもみどくんは忘れちゃってるのね、と、忘れててくれて嬉しいみたいな顔で言う。
「だから、誰やキミィ」
「思い出したら教えてあげる」
ニカッと歯を見せて、目を細めて女が笑った。
真っ白くて歯並びのええ綺麗な歯。だけど、笑い方には見覚えがある。
それを見てボクは、あぁ永久歯生え揃ったんやなぁと思って、気が抜けて目を閉じた。
成長してもキモい女や。一生忘れとるふりしたろ。もう関わることもないやろうけど。
そんなことを思いながら、また深い泥の世界へ落ちていった。
「おやすみなさいみどくん」
意識が途切れるスンゼン、あの日ボクのトマトをかすめとった指が、ボクのデコをさらりと撫でた。
2016/09/01:久遠晶