恋とデートは未経験
いったいなにが起こってるんだ?と、手嶋純太は首を傾げた。部室の扉を開けたまま、部屋に踏み入れずに立ち尽くしてしまう。
鳴子が杉元を羽交い絞めにしてなにかわめいている。制服のブレザーが辺りに散乱し、鳴子と杉元はシャツを脱いですらいない。
二人の横で、ベンチに座った今泉は素知らぬ顔だ。
「オラッ、杉元白状せいっ」
「わわわ、なんでもないって本当にっ」
「おーっす……なにやってんだおまえら」
「あっパーマ先輩! しゃっす!」
呆気に取られる手嶋に気づいた鳴子が、杉元の首を絞めながら頭を下げる。ぐえ、と杉元が呻いた。
「聞いてくださいよ、コイツ昨日の部活サボッて女の子とデートしてたんですよ」
「してないよ! そりゃ、相手はたしかに女の子だけど……」
「やっぱデートやないか! ワイらが必死こいて練習しとる間にフジュンイセーコーユーとは……」
「おいおい、落ち着けよ鳴子~」
全力で文句を言う鳴子に手嶋は苦笑した。
その様子を見てベンチに座って靴の調節をしていた今泉がため息を付く。
「もてない男は辛いな」
「あぁ!? なんか言ったかスカシィ!」
「おいおいおい」
小さなつぶやきをしっかりと聞き付けた鳴子が今泉に食ってかかった。
それらを諫めながら、話題の渦中である杉元に手嶋は合掌した。
この分では、説明することすら許されなかっただろう。
「病気の幼馴染みが退院したから迎えに行ってたんだろ? 杉元は」
「え」
「そういうことです……信じてくれよ鳴子、なんもないって」
「トモダチが病気やったんか。それを早く言えや杉元~」
「言う暇がなかったんだろ! 問答無用だったじゃないか」
「せやったっけ? ナハハ」
鳴子が調子よく笑うと、乱れた髪を整えながら杉元がため息をつく。
じろりと目を細めて不満たらたらの杉元に、鳴子は悪かった悪かったと背中を叩いた。
まったく調子のいいことだ。持ち前の調子のよさとキップのよさで場を明るく和ませるのは鳴子の長所だが、こういうときには逆効果だ。
「幼馴染みの女の子でね。小学生の時から病気がちでずっと入院をしてて……それが今回、ちゃんと退院できるようになったんだ。だからちゃんと、退院の時には迎えに行ってあげたかったんだよ」
「せやったんか。元気になったんならホンマによかったなぁ」
「ありがとう」
鳴子は自分のことのように喜び、杉元も嬉しそうにはにかんだ。友達思いの鳴子らしい反応だと手嶋は思う。
それぞれサイクルジャージに着替える間にも、会話は続く。
「それで、言っていたように来週の土曜日の部活も休むのでよろしくお願いします。退院したら水族館に連れてくって、前から約束してたんだ」
「ああ。いいぜ。楽しんでこいよデート」
「やっぱりデートやないか! ワイを差し置いて彼女がおるとは……」
「だ、だから違うんだって鳴子! あの子はなんていうか妹みたいな……!」
「ホンマかいな」
慌てて弁解する杉元に、鳴子が白い目を向ける。こらえきれずに笑う口元は杉元の恋愛沙汰に興味津々なのが丸見えで、手嶋は吹き出した。
「気になるな、杉元の幼馴染み。どういう子なんだー?オレ結構コイバナとか好きなタイプなんだ」
「手嶋先輩まで! ボクは手嶋先輩のコイバナこそ気になりますけどね」
「純太は……もてる」
「おい青八木、矛先をオレに変えるなよ。……っと、ほら、早く朝練やるぞ。楽しいコイバナはまたあとで、だ」
まだ話を聞き足りない鳴子を手をふって部室の外まで追いやると、杉元がほっと息をついた。朝練の前だというのに、すっかり鳴子の勢いにやられてしまったらしい。
手嶋は苦笑する。
ふうと息をついて気持ちを切り替えると、手嶋は次期部長としてのキリリとした表情になり、部員たちを先導し始めたのだった。
***
「んで、どんな子なんだ、杉元の幼馴染みってのは」
「忘れてなかったんですか先輩……」
「ハッ! せやった!」
放課後練習のあと、手嶋が杉元に言う。思い出した鳴子が杉元に白状しろやと笑いかける。
幼馴染みのことを話すとき杉元があんまり嬉しそうなものだから、手嶋も鳴子もつい興味が湧いてしまう。聞いてもないのに長い話を垂れ流すタイプの杉元が喋るのを渋るのも、興味に一役買ってしまう。
「しょうがないな。それならばお話ししましょう。僕の幼馴染みのことを。僕は経験者ですからね」
「なんの経験者やそれわ」
「それは小学生のときでした……」
鳴子の突っ込みなど聞かず杉元は語りはじめる。あ、これは長くなるやつだなと手嶋は自分から話題をふったくせにぼんやりと思った。
***
「いつもごめんね、杉元くん」
病室に学校で出された宿題を届けにいくと、その子はいつも申し訳なさそうに杉元をうかがった。
「いいんだよ。ボクは経験者だからね」
果たしていったいなんの経験者だと言うのか、返した杉元自身もよくわかってはいない。だが彼女は、杉元がこう言うと安心したように口元を緩た。
だから杉元は、意味のない『経験者』という言葉を彼女に向けてよく使った。
彼女はいつも自信なさげにおどおどして、おそるおそる杉元や看護婦を見上げていた。昔はもっと違った表情をしていたが、何年もの入院生活が彼女の性格に影を落としたのかもしれない。
容体がよくなり外出許可がとれると、彼女はいつもスポーツをしたがった。バスケ、キャッチボール、卓球。それらをやってみたいと呟き、慌てて取り消す。そんな彼女を外に連れ出すのが、杉元の役目だった。
「わたし、やったことなくて、わかんなくて、ごめんね、わたし」
「いいんだよ、ボクは経験者だからね。教えてあげよう」
自信たっぷりに胸を張る杉元を見て、彼女は安心したようにはにかんだ。
杉元は色んなスポーツを嗜んだけれど、要するにそれは彼女のためだった。彼女に安心してほしいから。笑ってほしいからだった。
スポーツに関して平凡な才能しかない杉元だったけれど、そんなことお構い無くに少女は杉元をなんでもできてすごいと言う。その純真な眼差しにこたえたくて杉元も練習に打ち込んだ。それでもやっぱり、『そこそこ』程度だったけれど。
彼女が退院できないまま何年も過ぎたけれど、杉元との関係は変わらなかった。杉元が部活の合間に病室を訪れる度、彼女は嬉しそうに笑う。ほっとしたような顔で「来てくれてありがとう」と言うのだ。
その表情が物悲しく、それでも好きで、杉元はいつも彼女に学校で起きたことを話した。
小野田のこと、今泉のこと、鳴子のこと。裏方から見たインターハイの熱量や、あるいはクラスでおきたいさかいの話。
それらをしっかり頷きながら聞き取って、彼女は嬉しそうに笑うのだ。
「いいなぁ、私も自転車乗ってみたいなぁ。乗ったことないけど……」
「そうだね、退院したら一緒にサイクリングしよう。教えてあげるよ」
「本当?」
「ああ。ぼくは経験者だからね」
口癖を言うと彼女がはにかむ。本当にそんな日が来ればいい、と杉元は心から思う。
「手術、不安かいやっぱり」
「うん……失敗したらどうしようって思うよ」
「わかる、わかるよその気持ち。実は僕も経験者でね、盲腸で入院したことがあるんだ」
「ああ、そういえばそうだよね」
「うん。八割成功するって言われても残りの二割が気になって気が気じゃなかったな。でもこうして無事にいるんだし、ななしも大丈夫だよ」
病気の深刻度は比べほどにもならないが、それでも杉元は自分の入院を引き合いに出してからから笑った。
彼女がすこしだけほっとした顔になる。
「照文くんは強いね。なんでも知ってて、なんでも出来て。なんにもできない私とは全然違う」
「もう、ななし。後ろ向きはよくないよ」
「そうだね、そうだよね! ねぇ、照文くん。私が手術成功して、退院できたら、お願いがあるの」
「なんだい? この杉元照文に任せておきたまえ。この僕にできることなら、なんでもしてあげよう」
開け放した窓から風が差し込んだ。カーテンが音もなく膨らみ、彼女の髪の毛をさらさらと揺らす。
彼女は静かな目で杉元を見つめた。
「私と──デートしてほしいの」
その瞬間確かに杉元の時間は止まった。硬直し思考が停止する中、頬を染めた少女が気恥ずかしそうに目を伏せる様子が、いやにスローモーションで展開されていく。
***
「……完全にデキとるやないか」
「ノロケか」
「とりあえずおめでとう」
「いや、単純に外で出掛けるってことに憧れてるだけなんだ。女の子って友だちと遊ぶのもデートって言うしね」
杉元は人差し指をピッと立てて間違いをただす。ほんとかなぁ、と疑いの目が複数。
「で、どこいくんや」
「水族館。だから今魚について調べてるんだよ。知ってるかい? ナマコって内臓失っても生きてるんだってさ」
「グロいてそれ」
見栄っ張りな杉元らしいな、と手嶋は納得する。
ロッカーのなかに置かれた本類は、すべて海の生き物をあつかったものらしい。写したノートが伏せんだらけになっているのを見て、クスリと笑う。自信過剰なところがたまにキズな杉元だが、こういうときには微笑ましい。
「頑張って楽しいデートにしろよ」
「はい、頑張ります。なにしろぼくは水族館経験者ですからね」
「だいたいの人間がそうだろ」
今泉が突っ込む。手嶋は話し込んでいたことに気づき、慌てて手を叩いて帰宅を促した。
***
「チケット、高校生三枚お願いしますっ」
「はぁい」
「小野田、そんな緊張するなよ」
「それにしても野郎三人で水族館デートかぁ~しかもスカシと」
「あ?」
「本当にありがとう鳴子くん! 今泉くん!」
水族館のチケットをそれぞれに渡しながら、小野田が嬉しそうに笑う。いいってことよと、鳴子も今泉も小野田に笑いかけた。
込み合う水族館内部はだいたいが家族連れか男女の組み合わせだ。
このなかに一人で飛び込むのは、人見知りするタイプの小野田には辛いだろう。鳴子も今泉もそのように納得している。隣にいるのが犬猿の仲の男なのが不服だが。
「ラブ☆ヒメと水族館がコラボしてるって聞いて、どうしてもいきたくってさ。でも一人じゃなかなか行けなかったから、来てくれて助かったよ~」
「……うん、その辺は、一人で行ってな」
「あのね、ラブ☆ヒメ二期に登場する敵キャラが深海魚モチーフなんだ。海を題材にしたアニメとしてもクオリティが高くって、ラブ☆ヒメファンならずとも敵キャラの造形が好きって子も多いんだよ」
「お、おう……」
「さよか……」
「それが今回、原型師さんの手で1/1スケールで立体展示されてるんだ! 早く見に行かないと! 二人とも早く早くっ」
一人で話を完結させた小野田が小走りで展示スペースのほうへと向かっていく。早くと鳴子と今泉を急かしてはいるが、視線は完全に前を向いて二人のことなど忘れている。
相変わらずだな、と二人同時にため息をつく。
「俺たちも行くか」
「せやなー。小野田くんはアニメのこととなると相変わらずやな」
「あれがインターハイ一位取った男だぞ……っと、鳴子、どうした」
「まてまてまて、あれ杉元やないか」
「服引っ張るなよ」
今泉の腕を引っ付かんだ鳴子が、物陰に今泉を押し込んだ。鳴子自身も隠れる。
鳴子が指差す方向をたどると、水族館の入り口でチケットを購入している杉元の背中が見えた。
杉元は職員になにか言われ、慌てて手を振っている。その顔は赤い。傍らにいる少女が、照れたようにうつむく。
「『あーこんにちはぁ。カップル二枚ですねぇ』『なっなにいっとるんですか!ちゃ、ちゃいますよこの子は!』『杉元クン声おっきいよぉ……』ってとこか」
「お前の猫なで声気持ち悪いな……」
「なんやとスカシ泉のくせに。あっ、行ってまう。追いかけるぞスカシ」
「おい、小野田はどうすんだ」
「どうせワイらが着いてっても置いてかれるだけやって。それにクラスメイトの恋は応援せなあかんやろ~」
鳴子はニヒヒと意地の悪い笑みをこぼしながら杉元たちの後をついていく。
放って小野田と合流するかと、今泉は考えた。一人で『オタクモード』の小野田を相手する気苦労と、鳴子と二人でいる気苦労を天秤にかけ、もう一度ため息をついた。
「鳴子、もうすこし忍ぼうとしろ、目立ってるぞ」
「なんやスカシィ、お前も結構気になっとんやないかい」
「なってない」
否定しながら、杉元と一定の距離を取りつつ水族館を散策する。
杉元は水槽の前で魚の一匹一匹を丁寧に解説している。
「この魚の名前、不思議だろう? 諸説あるけど、こういう由来があってね」
「へえ……! そうなんだ、照文くん、ほんとになんでも知ってるね」
「それほどでもないさ」
杉元が自慢げに胸を張る。背中に回した手にカンペが握られているのが、後方にいる今泉たちにはよくわかる。
「あいつカンペがあっても話長いな……」
「てゆか、あの子ようあいつの話聞けるなぁ。ええ子やわホンマ」
それにかわええし、と鳴子が付け足した。
杉元の言葉をひとつひとつ丁寧に聞き取ってうなずく少女の頬は赤い。きらめいた瞳からは、杉元への好意が全方位へと放出されている。
人差し指をたてうんちくを語る杉元は、時おりその視線に気づくと照れたように言葉をつまらせて顔を背ける。
なるほど意識してしまって、いつもより余計に話が長くなっているようだ。声が裏返る寸前の時だってある。
どこからどう見ても、初々しくて微笑ましいカップルだ。すれ違う家族連れが、昔を懐かしむような暖かい視線を向けてすらいる。
「それに引き換えワイらは男二人と肩並べて出歯亀かぁ……ハァ~」
「お前が尾行し始めたんだろ」
「まぁなぁ~」
からかうネタが増えたと思っているのか純粋に祝福しているのか、鳴子はとても楽しそうだ。その表情に毒気を抜かれた今泉はため息をつく。
今泉は鳴子と相性がすこぶる悪く、減らず口ばかりを叩きあっている。それでも本気で鳴子を軽蔑したことは一度もない。
―――かっこつけだし口を開けばうるさいヤツだが、悪いやつではないんだよな。
「だがウザいな」
「ん! なんか今誰かにバカにされた気がするぞ」
「今俺がバカにした」
「なんやと!」
声を潜めて言い合う間に、フロアが変わり水槽のトンネルへと入っていく。
ガラス張りのトンネルを魚たちが泳いでいくのを見上げ、少女が感嘆の声を上げる。
それを数歩後ろで眺める杉元が嬉しそうに笑う。
「すごい」
「うん、きれいだよね。はじめて来たときは驚いたな」
「今日、連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして」
杉元を振り返る少女は、水槽の光が反射してうすぼんやりと光っているように見える。元々の肌の白さに、トンネルを横切る魚たちもあいまって、幻想的で儚げな絵画のようにも思えてしまう。
「私、こういうとこはじめてだから、よく受け答えできなくてごめん。でも、すごく楽しいから……」
「ああ、いいんだよ。もちろん。ぼくは経験者――ではないんだけど」
「え」
人差し指をぴっと立てた杉元は言葉の途中で苦笑した。気まずそうに視線をそらし、頬をかく。
少女が目を瞬かせる。
「正直、ぼくもはじめてなんだ……こういうの。朝から緊張していたよ。だから、楽しんでるって言ってもらえて安心したかな」
「照文くんにも、はじめてのことあるんだ」
「そりゃぼくだって子供だからね」
「……うれしい」
杉元が肩をすくめると、少女が目を伏せてぽつりと呟く。その頬の赤みに同調するように、杉元の頬も染まっていく。耳まで赤いのが、遠目にもよくわかる。
「……次、行こうか」
「ん、うん」
杉元は少女の手をぱっと取り、そのまま歩き出した。きっと本人はさりげなさを装ってるつもりなのだろう。だが緊張しているのがまるわかりだ。
視線を交わして微笑みあう二人に、今泉も自然と笑っていた。人の恋路に興味はないが、微笑ましくなってしまう。
「もう、小野田のところ帰るか。これ以上は見なくていいだろ」
「せやな~…見せつけられたわホンマ」
きびすを返して杉元に背を向けたふたりだったが、すぐにまた振り返った。
「あーっ杉元くん! 杉元くんもラブ☆ヒメ好きなのー?!」
「わ、わぁ小野田!?」
そんな声が聞こえてきたからだ。
事態を把握した鳴子が頭を掻く。
「まったく小野田くんはホンマ相変わらずやな」
「助けにいってやるか……」
「世話が焼けるで」
今泉が「そのわりには楽しそうだな」と返すより先に、鳴子が小走りに駆け出していた。
小野田と杉元に割ってはいる様子を見て、今泉も四人のもとへ向かう。
杉元と少女には同情するが、外にあまり出たことがないのなら友達同士でのばか騒ぎとも縁がなかっただろう。
これはこれで結果オーライになるのだろうかと考えながら、今泉にもいたずら心が芽生えていた。
2016/01/03:久遠晶