たまにはゆっくり歩こう
さんは、天然というか、なんというか。
ひょっとして俺と青八木が付き合ってるのだと誤解してないか? と首をかしげることがしばしばだ。
部活と自主練の終わり。大学から帰るさんと待ち合わせて、ロードバイクを引いて並んで帰る。たわいのない会話をしながら歩くこの瞬間が、俺の癒しのひと時だ。
「手嶋くん。よかったらこれ……」
さんがバックから何かのプリントを差し出した。来月公開される映画の試写会、それの当選メールを印刷したものだ。
曰く、母が営業先でもらってきたとのこと。当選したはいいが予定がつかないお客さんから譲られたが、母も興味がない。結果として、さんが受け取った。
二人で映画なんて、いつぶりだろうか。三年間ずーっと自転車を優先し続けてきた。最後のインターハイが終わった俺は、少しは時間が取れる。
こういう、俺が遊べるタイミングを見計らって誘ってくれるさんが好きだ。惚れ直してしまう。
「いいな、それ。ちょうど観たかったやつなんだよ」
「よかったら青八木くんとどーぞっ」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。頬が引きつるのがわかる。
この人、今なんて言った?
「あーっ……と、その、確認なんだけどさ、さんと俺って……付き合ってるん、です、よね?」
「えっ」
ぎこちなく問いかけると、さんは目を瞬かせた。血色のいい頬に、さらに赤みが差す。さんは助けを求めるように視線をさ迷わせて、手元に視線を落とした。
「う、うん。つ、付き合って……ます」
坂道を歩きながら、さんは確かに言った。俺の隣をトラックが通り過ぎていく。
さんの言葉に、はぁーっとため息が漏れる。安心した。
「俺は、それ、デートのお誘いだと思ったんだけど」
「えっ」
さんが顔を上げるが、俺と目が合うと、すぐそっぽを向いてしまう。前方不注意。電柱にぶつかりそうな肩を引き寄せると、さんはあからさまに身を強張らせた。
「危ないっすよ」
「あ、ありがとう」
本当はこのまま抱き寄せたまま歩きたかったけど、さんが照れすぎて逃げそうなので、渋々手を離した。片手で引いていたロードのハンドルに手を戻す。
さんは、無言で俺から距離をとった。
ウブだなぁ、と苦笑してもどかしくなると同時に、この人のこういうところに救われていたのも確かだ。
二年前。さんの卒業式の日、俺から告白した。来年、青八木と一緒に絶対インターハイに行きます、田所さんを支えて、総合一位を勝ち取ってみせます、と、啖呵を切った。恋心の告白というより選手宣誓みたいなセリフで、思い返すとかなり恥ずかしい。
青八木を勝たせる為の参謀に徹していた俺は、結果らしい結果というものをほとんど出していなかった。笑われたって仕方ないと覚悟していたが、さんはひどく嬉しそうに笑って、俺の手を掴んだ。
──頑張ってね、手嶋くん。卒業しても応援してるよ。
さんは俺の目を見てそう言った。
一度も勝ったことがない俺の勝利を、本気で、真っ向から信じてくれる。そんな人だから、俺は好きになった。
──えと、俺、告白してるんですけど……。
──えっ!? あ、そっか、そうだよね。えと……よ、よろしくお願いします……。
顔を真っ赤にして俯くさんは半端なく可愛くて、俺はその場で抱きしめたりガッツポーズしたりってのを抑えるので精一杯だった。
そうやって付き合い始めて二年だけど、恋人らしいことは一切したことがない。
俺は部活が忙しかったし、かなり奥手なさんが進展を望まなかったからだ。お互いの状況がうまいこと噛み合ったと言える。
でも最後のインターハイが終わって俺に時間ができた今は……さんの奥手さが、少しもどかしくもある。
というか……まさか、青八木と行けって言葉が出てくるとは思わなかった。
全然構えなかったことへのヤキモチや嫉妬心から出る嫌味ならわかるが、嫌味抜きの善意で言ってるのだから、また、俺はやきもきするのだ。
さんと俺の隣を、木枯らしが通り抜けていく。
なんとなく会話が終わってしまって、俺は口を開けるタイミングを逃してしまっている。
社交性ゼロの青八木にも臆せず話しかけられる程度には俺は社交的な性格だと思ってるけど、こういう時、女の子になんて声をかけるのが適切なんだろう。
俺は、さんが好きだ。今まで遊べなかった分たくさん遊びたいし、寂しくさせただけさんを楽しくしてやりたい。
ロードバイクに精一杯で、時間が取れない俺を理解してくれて、怒ることもなくずっと待ってくれていたのだから。感謝を返したい。
そして、あばよくば色々と……。と考えるのは、俺の男ゴコロだ。この欲望は、まぁ、さんには関係ないことだけど。
「わ、私も、デートしたいです」
不意にさんが言う。
「なら、試写会二人で」
「でも」
ほっとして笑おうとした俺は、言葉を遮られ、唇を引き結ぶはめになった。
「私は、映画館まで電車だから」
「……うん? うん」
当然、そうなるだろう。俺のロードバイクは留守番だ。
「ご飯も駅のそばになるし、多分、時間、たくさん取らせると思うの」
「うん」
まぁ、デートなんだからそうなるだろう。試写会の帰りに近場でご飯を食べながら感想を言い合う。それで、ショッピングでもカラオケでも、好きなことをすればいい。多分デートって、そう言うものだと思う。
なんとなく、さんの言いたいことが察せてきた。でもここで口を出すのは違うから、俺は口チャックしてさんの言葉を待つ。
「私、手嶋くんの自主練に付き合ってあげられないし、デートしたら、練習の時間、たくさん奪っちゃう……と、思うの」
バックのひもをぎゅっと握って、さんは足元を見つめながら言う。
ああもう、この人が好きだ。
頬がにやけそうになってしまう。でもここで笑ったら、さんは怒るだろう。気を引き締める。
「俺、もうすぐ引退だし、時間のことなら大丈夫だよ」
「引退は、そうだけど。でも、大学でももちろんロードは続けるんでしょう?」
遊んでるひまがあるのか、と、さんは言いたいのだろう。
相方と二時間、映画のために練習を休むことはできても、恋人とデートで一日を使い潰すことはできないはずだ、と、遠慮している。
バックのひもを握る手はせわしない。何度もひもを握りこむ動きに、ひょっとしてこの二年間、寂しい思いはさせてたのかもしれない、と思った。
「俺は、さんと一緒にいたい」
「……手嶋くん」
「まー、そりゃ、大学のこと考えれば、そんなに遊んでる暇もないだろうけど。でも、この三年間ほとんど遊ばずにまじめにペダル回してたし。たまにハメ外すぐらいならさ、大丈夫だよ、うん」
ずっと俯いていたさんが、俺の方を向いてくれた。
「ほら、休むことも立派な練習だー、って言うしさ」
「……そうだね、ティータイムも大事だねぇ」
さんが、安心したみたいにへにゃっと笑った。
「だからさ、えぇと、来週の日曜でいいか? 空けるから」
「うん、私も空けとく……」
カバンのひもをいじくったり握り込んだりしていた手が外れる。体の横に落ちてきた指先が、俺の指に触れる。
さんがピクンと肩を揺らすより早く、その手を掠め取った。
ロードバイクを片手で引くのなんか簡単だ。
「色々さ、恋人っぽいことしようぜ。なんかこー、付き合ってるって感じじゃなかったもんな」
「う、うん」
「こう見えて結構不安だったんだよ、自然消滅とか、大学でいい奴見つけちゃうんじゃないか、とか」
「……それはないよ」
「だといいけどなぁ」
さんの冷たい指が、俺の手をぎゅっと握った。
「私は、自転車乗ってる手嶋くんがいっとう好き」
「へ」
「あ、違うの、自転車乗ってない手嶋くんが好きじゃないとかじゃなくて、あの、横顔がね、あの、ちがくて、言葉の綾なんだけど、」
さんは手を繋いでない方の手をわたわた上下に動かしながら、必死に言い訳を始める。
「自転車が好きな手嶋くんが好きだからさ、私。変な意味じゃなくってね、」
さんは、その言葉を俺がどう感じるか、まるっきりわかってないんだろう。
俺はなんだか、今までの自転車人生が急に報われたような気分になって、ロードバイクのハンドルを握り締めた。
この人の前だと、どっと力が抜ける。骨抜きにされるっていうか、ふにゃふにゃにされてしまう。それが人を駄目にする感じではなくて、これからもまた頑張ろうという活力が沸いてくる。
「やっぱ俺、さん好きだなぁー」
泣くのは嫌なので頬を持ち上げると、ふへっ、と変な笑い声になった。
2019/11/12:久遠晶