愛しい停滞
目の前で、主人と呼ぶべき生き物が倒れている。
下着だけを身に纏った素肌は裂け、ちぎれ、手足はあらぬ方向に折れ曲がっている。
手首のインプラントは光を失い、その生き物はまぎれもない死肉へと成り下がっていた。
彼がその死肉を鉤爪で撫でると、それだけで容易く新しい傷が刻まれ、肉片に分かたれる。
あまりにか弱く、ちっぽけだ。
ただのエサ。
捕食されるだけの生き物。
「バリオニクスに死体いじりの習性はないはずだが」
後ろから声がかかった。
威嚇音ではない、彼に対しての呼びかけだ。 振り返ると、地面に倒れる死肉と同じ形をした生き物が立っている。
つぎはぎと補強だらけの皮装備を身に纏う生き物は、同じ顔をした死肉を一瞥すると、慣れた動作で携行していたものを剥ぎ取りにかかる。
獲物の皮、食料、小瓶類。死肉そのものの解体も忘れず行い、皮と肉に選り分ける。
「食うか?」
何かに気付いたように、彼に肉片を差し出した。
彼は動物の肉を食べないので、首を振る。その返答はわかっていたようで、そうかい、と興味なさげに肉を鞄にしまった。
「怪我は?」
生き物は立ち上がると、彼の皮膚に触れた。様々な角度から彼を見やり、負傷の度合いを確かめて息をつく。
「ヤツらは?」
種族が違うから、生き物の鳴き声は、彼には通じない。
だが、経験から理解出来る。だから彼は大きく口を開けた。かつての主人――目の前の死体にかぶりついて骨を噛み砕いた奴は、この牙で屠ってやった。この爪で引き裂いてやった。
「……まぁ、お前が無事ならそれでいい」
はぁ、と息を吐いて、
「拠点に戻るぞ」
そう言ってから、彼女はなにかに気が付いた。回収した道具の中から光を失ったインプラントを取り出し、地面に投げ捨てる。
「ご苦労様」
彼女の手首で、同じインプラントがかすかに光りを放っていた。
***
拠点に帰る道すがら、生き物の手首が赤く光っていた。インプラントが淡く発光しているのだ。それが気になって眺めていると、視線に気が付いた彼女が振り返る。
「ん……これが気になるか?」
近場に我々の他には餌も敵もいない。見晴らしのいい砂浜なのもあり、生き物は珍しく拠点の外でもよく喋る。
「お前にも同じものがついてるんだぞ。そう……この辺に」
皮膚の薄い腹のあたりを撫でられる。生温い体温に、彼は呻いた。
「これが我々の核らしい。忌々しいことだが」
種族が違う鳴き声の意味は、細かいところまではわからない。
彼女という生き物には、わかりやすい威嚇の鳴き声やポーズというものがない。顔の動きが感情を表していると気がついたのは、最近の話だ。
「外に出る鍵も、これにあると思うんだが。誰がどうやって、私をこんなところに閉じ込めたのかわからんが……絶対にここから出てやる」
わからないことを言う。
ここは拠点の外だ。外に出るもなにもない。外なのだ。
少し歩くと拠点が見えてきた。篝火が灯してあるから、遠くからよくわかる。
彼女の背中を頭でグイグイ押すと、「わかったわかった、拠点はあそこだな」と、慌てた鳴き声。
「私が言いたいのは、暖かいベッドと危険のない世界に戻りたいってことだよ」
やはりおかしなことを言う。
危険などない。彼が隣にいる限り。
たとえこの、主人と呼ぶべき生き物が死肉に成り下がっても、しばらくすればすぐに新しい主人がやってくる。壊れかけてボロボロの服を身にまとって。彼女にしか作れない武器を携えて。
拠点に帰ると、彼女はまずベッドのある小屋の中に入り、木の壁にナイフで傷をつけた。壁の一面に、正という形の傷がびっしりと並ぶ。
その意味は彼にはわからない。 わかっているのは、彼女はか弱く、あまりに死にやすい生き物ということ。そして、彼に美味い食事を用意してくれることだけだ。
彼は川辺に住み着き、魚を食らって生きていた。時には海にいる大きな魚を喰らい、極上の肉を食んだこともある。川辺に近づいた肉食恐竜を襲って殺して、魚の餌にしてやった。
だが彼がそうやって食らってきたなによりも、彼女が火を用いて作る食事の方が美味かった。
だから彼はここにいる。 藁と木で作ったベッドで眠る、彼女の傍らに。
彼女が本当の意味で死んだら、もうアレは食べれなくなる。
だから守る。
付き従う理由としては、十二分だ。
彼女は非力な身体で、道具を作り、巨大な生物とも渡り合う。彼が頭を下げ、視線を合わせない──恐ろしい格上にも果敢に向かっていく。だから、守る存在が必要なのだ。
寝返りを打った拍子に布団からはみ出た手には、爛れた火傷の跡がある。
はじめて「彼女という生き物」を見た時にもあった傷だ。彼女が死肉になりもう一人の彼女が後ろからやってくる時、負った負傷は全てなくなっているのに、この火傷だけは消えない。
気になった彼が以前、ぺろりと火傷を舐めた時、「子供の時にちょっとな」と言い、彼の顎を撫でた。
彼女は多くを語らないが、彼も彼女の言葉を言語として認識できないので、どうでもよかった。
ほどほどの意思疎通はできるので、十分なはずだ。
彼女のことは何もわからない。己の手つきを恨めしく睨みつける理由も、外から帰るたびに刻みつける壁の傷の意味も、何もかも。
だが今のところ彼女は彼の隣で穏やかに寝息を立てる。かすれて血が滲む頬をぺろりと舐めても、すこし顔をしかめるだけで起きやしない。
愚かとしか言いようのないこの油断を、彼は好んでいた。だから今しばらくは、美味い食事とこの油断だけでよかった。
2019/5/14:久遠晶