fixed mind 2


 調査兵団に入団し、一年ほどが経過した。ハッキリ言って、この一年のことはよく覚えていない。幾度かの壁外に参加し、何度も死にそうになった。それでもこうして生きているのだから、昔の私はうまいことやったのだろう。
 壁の中も外も、時間は目まぐるしく過ぎた。物価は高騰し、嗜好品は得られない。兵舎で出される食事のグレードはみる間に下がった。
 しかし三食食べられるだけましだ。生産者たる民衆は、これ以下の暮らしを余儀なくされているはずだからだ。
 味のろくにしない穀物のスープと固いパンを食んでいると、やはり憲兵団に入っておいたほうがよかったか、と、冗談めかした考えが浮かぶ。
 だけれど、この一年間私はついぞ異動願いを出さなかった。異動願いは速やかに受理されるとわかっていたが、そんな気にはなれない。


   ***
 重々しい扉を前に、私は息を整えた。団服のしわを伸ばし、肩を持ち上げて下ろし、力を抜く。
 エルヴィン団長の執務室を訪れているのは、所属する班の分隊長から書類を届けるように言付かったからだ。どうにも緊張してしまう。
 意を決してノックする。ややあって扉越しに返事があった。エルヴィン団長だ。
 今日も今日とて、お美しい。

「失礼いたします。分隊長が、報告書を届けるようにと」
「ああ、ありがとう。机に置いておいてくれ」

 部屋には、机に向かうエルヴィン団長以外にリヴァイ兵長の姿も見えた。お話しの邪魔をしてしまったらしい。
 一礼し、そそくさと退散しようとしたとき「おい」とリヴァイ兵長の低い声が飛んできた。
 何か粗相をしてしまっただろうか。

「はっ。なんでしょう」
「お前、ダンスは得意か」
「は?」
「質問に答えろ」

 間抜けな声を出すと睨まれた。この人はどうにも苦手だ。信頼し尊敬しているが、それと人柄は別だろう。
 エルヴィン団長は目頭を押さえて首を振っている。呆れているのか?

「ダンスは……えぇと、踊ったことがありません。なにかの俗語でしょうか?」
「そうか。さらに聞くが、なにを言われても黙っていることは得意か」

 ますます質問の意図が見えなくなる。

「やめろ、リヴァイ。すまない、もう行っていいぞ」

 手で下がるように示されるものの、リヴァイ兵長に睨まれたままでは逃げるに逃げられない。私を見据え、回答を待つリヴァイ兵長に息がもれた。

「……質問の意図がわかりませんが、黙っていろと命令されれば、従うのが当然と考えます」
「だそうだ」

 リヴァイ兵長が、エルヴィン団長を見やる。
 エルヴィン団長は困ったように、あるいは呆れたように目を細めた。
 話は全く読めないが、今この人がリヴァイ兵長の対応に苦慮しておられて、私も話に巻き込まれつつあることだけはなんとなくわかった。

「あのな、リヴァイ……。俺が一人で行けばいい話だろう」
「仮にも調査兵団の団長だぞ。警護もなしで行かせられるか。それに招待状はお前と、あともう一人分あるんだろう」
「お前が無理で、ハンジは風邪。仕方がないだろう。ミケはああいう場には適さないし……」
「だから、こいつを呼び止めたんだろう」

 リヴァイ兵長が親指で私を指し示した。慌てて居住まいを正す。
 ちらりと私を見やったエルヴィン団長は、明らかにしぶっている。リヴァイ兵長は「つまりだな」と私に向き直った。

「王都で豚どものパーティがある。そこに調査兵団も参加しねえといけないんだよ」
「豚のパーティ……謝肉祭かなにかですか?」

 私の質問に、リヴァイ兵長がギロリと目を細めた。
 エルヴィン団長が観念したように補足する。

「……貴族や重役のパーティだ。嫌味を言われるために行くようなものだが、調査兵団の援助者も出席するから行かないわけにもいかない」

 なるほど、エルヴィン団長のほかにもうひとりパーティの出席者が必要、という話らしい。確かに団長一人を行かせるわけにもいかないのだろう。
 ……ん?

「待ってください、まさか」
「ああ。お前が行け。俺は奴らに嫌われてるからな」
「ええっ!」

 でかい声が出てしまって慌てて口をふさぐ。あまりに突拍子もない言葉に、自分の顔がわけのわからない歪み方をしていることを自覚した。

「ちょっと待ってください。自分はその、いい生まれではなくて、お偉方と馬が合うとは到底……」

 そこまで言って、リヴァイ兵長の視線に気づいた。

「何か文句があるか?」

 入団から一年経ったとはいえ、まだまだぴよぴよの新兵である私に、拒否権などあってないようなものだった。


  ***


 ガタガタと馬車が揺れ、不意に止まる。目的地に到着したらしい。
 私の隣にいたエルヴィン団長が馬車の扉を開け、先に降りた。私もそれに付き従い、石畳に降りようとし──動きが止まる。
 地面までが高い。
 今の私の服装は、いつもの団服ではない。トロスト区の職人が裁縫した上質のドレスに身を包み、靴もブーツではなくかかとの高い女性用の靴だ。石畳にうまく降りられるかどうか、不安になる。

「大丈夫か?」

 正装のエルヴィン団長が私を見上げ、手を差し伸べてくれた。

「その靴では、一人で降りるのも大変だろう」

 当然のようにエルヴィン団長は言う。
 しかし私はエルヴィン団長の部下だ。上官の手を煩わせてはいけない。
 だから「大丈夫です」とエルヴィン団長を手で制し、地面へ降り立とうとした。

「うおっ」
「危ないっ」

 慣れない靴にふらついた瞬間、エルヴィン団長が片腕で支えてくださる。距離が近い。慌てて離れようとしてまた足元が揺れ、再度団長の腕のなかに引き戻される。

「も、申し訳っ」
「気にしなくていいから、ちゃんと立て。私の腕を掴んでいろ」
「そんなことできません」
「ここはパーティの場だ。男が女をエスコートするのは当然だ」

 エスコート。聞きなれない言葉だ。
 社交界において男は女をリードし、なにをするにも手助けするもの、らしいが。兵士として男と対等に研鑽を詰んできた身からすれば、おいそれと受け入れられる言葉ではない。しかし……。

「……申し訳ありません。先ほどは見栄を張っていました。私情を捨て、任務達成のために最善を尽くします」
「あまり固くならなくていい。ただそこに居てくれればいいんだ。必要なことがあれば私が指示を出す」
「了解しました。……すみません、腕、失礼いたします」

 一言断り、エルヴィン団長の腕をそっと掴む。スーツ越しに腕の筋肉を感じ、居た堪れなくなってしまう。一介の兵士でしかない私が、なぜ団長の腕に腕を絡ませているのだろう。分不相応すぎる。
 エルヴィン団長と歩幅を合わせ、ゆっくりと歩き出す。
 石造りの階段の奥に、パーティ会場が見える。何階建てかもわからない豪奢な建物は巨人よりもよほど大きく、厄介なものに思えた。

 受付を通り、エルヴィン団長と共にパーティ会場へと足を踏み入れる。
 そのあまりの広さにめまいがした。兵舎の食堂何十個分だろうか。調査兵団の連中を全員詰め込んでもまだスペースがありそうだ。

「エルヴィンくん、来たか」
「ご無沙汰しております」

 貴族と思しき連中が、エルヴィン団長に歩み寄る。私は慌てて手を外し、団長と共に敬礼を行う。

「今回のお付きはハンジくんではないんだな」
「ええ。ハンジは別の任務がありまして。今回は彼女を……将来有望な兵士です」

 将来有望な兵士、という評価は貴族向けの世辞であることは理解しているが、誇らしい気持ちになるのを止められない。
 貴族の男は私を見ると、友好的な笑みを浮かべて両手を広げた。

「とても美しい。よろしく」
「よろしくお願いいたします」

 ドレスの裾を広げて軽くお辞儀する。普段慣れない挨拶の仕方なので、きちんと手順を踏めているか自信がない。
 貴族と和やかに会話するエルヴィン団長の二歩斜め後ろにさりげなく移動し、自分は置物なのだと言い聞かせた。
 ややあって、貴族が離れていく。

「あのう団長、私、今のかんじで大丈夫でしたか?」
「ああ。あの調子で頼む。不愉快になることもあるかと思うが、どうかこらえてくれ。くれぐれも暴言は吐くなよ」
「もちろんです」

 念を押すエルヴィン団長に力強く頷く。
 私は与えられた仕事をこなすだけだ。
 あいさつ回りをするエルヴィン団長に付き従って、会場を歩く。その都度私はエルヴィン団長に紹介をされ、慣れないお辞儀をする羽目になった。
 にこにこと笑みを張り付けながら、エルヴィン団長と貴族たちの会話にもっともらしく頷き続ける。聞き流すうち、断片的に会話が理解できるようになってきた。
 ハンジ分隊長は風邪で来られず、私に白羽の矢が立ったと聞いている。しかし、エルヴィン団長は風邪とは言わず「別の任務で」と言葉を濁すのだ。
 兵士のくせに軟弱な、という批判を嫌ったというより、もっと別の理由があるらしいことが、読めてくる。

 ハンジ分隊長の体調不良は、壁外調査の直後からだ。
 要するに外から病原菌を拾ってきたと思われたくないのだ。壁が破られ調査兵団の期待は増したが、地位が低いことには変わりがない。非難の材料を増やしたくないのだ。

 そこまで察せられたとき、私は頭が痛くなった。「調査兵団の団長は部下を死なせる作戦を練るのが仕事」などと揶揄される世の中で、団長がしゃんと立つことはどれだけ過酷なことなのだろう。
 貴族との会話のなかでも言葉の端々に調査兵団への嘲りが感じられる。エルヴィン団長は眉ひとつしかめずに、それらを受け流す。
 リヴァイ兵長が、頑なに同行者をつけようとした理由がよくわかる。
 確かに、こんな場所にひとりで行かせられない。エルヴィン団長を慕う調査兵団のひとりとして、強く思う。

「──あなたはどう思われますかな?」
「へ? あ、いえ、私は……」

 横から急に話しかけられ、混乱する。エルヴィン団長に集中していて話を聞いていなかった。

「色々お話ししてくださいよ。壁の外はどんな様子なんですか?」
「ぜひ武勲をお聞かせ願いたいものですな」

 いつの間にか数人の貴族に取り囲まれていた。
 エルヴィン団長に指示を仰ごうにも、いつのまにか距離が開いている。しかも、会話に花を咲かせていて邪魔が出来ない。

「内地にいると刺激が少ない。壁の外はさぞ波乱に満ちているのでしょう」

 若い貴族がうらやましそうな目で言った。

「巨人を見てみたいですよ」
「なにを言うんだ、きみのような若造はすぐに喰い殺されるのがオチだ」

 年配からの突っ込みが入り、貴族たちが笑う。私は愛想笑いを引きつかせるので精いっぱいだ。
 何をバカなことを言っているんだ、こいつらは。
 ウォール・マリアの民を投入した奪還作戦を行い、敗退してから幾月も経っていない。それを知らないわけではないだろうに。
 考えると暴れたくなって仕方がないので考えないようにしていたが、そもそも口減らしのために民を犠牲にした直後に、この豪奢なパーティは何だ。平民が飢えながら作物を育てる横で、こいつらは。
 こいつらは酒の肴がほしいだけだ。私たちの死を、努力を、酒の肴の笑いものにしたいだけだ。自らの血を流す覚悟もないくせに。
 ドレスの裾を握りしめる手に力がこもる。リヴァイ兵長が豚どもと呼ぶ理由が、わかった気がする。
 しかし、私は頭を垂れるしかないのだ。

「そうですね。ではお話しいたしましょう。あの壁が破られた日、私は──」

 務めて笑って言った。抑揚に気をつけ、興味を引けるような話し方を意識する。
 ──すまない同期たち。私はこれから、きみたちの死にまつわる話を面白おかしく脚色する。


 そこからはもう、ほぼほぼエルヴィン団長と別行動を強いられた。
 私の話ぶりを気に入った貴族が勝手に盛り上がり、他の話はないか、もう一度話してくれなどと言い出したのだ。
 半ば強制的にエルヴィン団長と引き離され、『武勇伝』を語ることを求められ、屈辱的なコメントに甘んじる。
 酒や食事を勧められ、断り切れずに食べさせられる。
 はっきり言って、食事は美味かった。立食パーティ用の軽食だが、兵舎で食べる燻製や固いパン、穀物のスープほど比べ物にならない。分厚い肉やドレッシングのかかったサラダ、濃厚なスープ。芳醇なワイン。庶民は一生かかっても味わえないものだ。

「なかなか食べる機会がないでしょう。お好きなだけどうぞ」

 その言葉には、所詮は庶民であるという嘲りが込められている。
 貴族の一人が新しいワインを差し出してきた。

「どうぞこちらもどうぞ」
「あ、いえ、私お酒はこれ以上……」
「どうぞ」

 目の前にずいとワインを突き出された。
 これ以上断ると失礼になってしまうだろうか。
 すでに酒を何杯も飲まされていて、身体は熱いし頭もすこしふらふらする。今はまだほろ酔いぐらいで済んでいるが、これ以上飲んだら本格的に酔っぱらってしまう。明日の訓練にも差し障る。
 貴族たちは、きっと酔っぱらって醜態を晒す調査兵団が見たいのだ。
 バカにしてくれやがって。
 私はこみ上げる怒りを抑えこんで微笑み、ワインへ手を伸ばした。
 グラスに指先がふれる前に、誰かがワインをかすめ取る。

「失礼。うちの部下をいじめないでやってくれますか」

 エルヴィン団長の声がした。振り返ると、私の後ろから手を伸ばしたエルヴィン団長が、かすめ取ったワインを目の高さまで掲げるところだった。

「美しい色だ」

 相手の貴族に軽く会釈をし、ワインをゆっくりと回す。そうして匂いを楽しんでから、口に含む。

「素晴らしい」
「内地のブドウ農家に作らせた、一般には流通しない高級品ですよ」

 貴族が笑いながら答える。なるほど、とエルヴィン団長が感心したように頷いた。
 別にワインが悪いとは言わないが、ウォール・ローゼの生産者が必死に作物を育てる中で……と考えてしまうのは仕方がないだろう。
 エルヴィン団長が不意に私のほうを向いた。心中での悪態が顔に出ていただろうか。

「顔色が悪い。大丈夫か?」
「えっ? はい、問題な──わっ」

 心配そうに肩を掴んだエルヴィン団長が、周囲に気づかれないように私の身体を押す。思わずふらついた瞬間、手を掴んで支えられる。

「人酔いしたようだ、すみませんが、一度休ませていただきます。行こう」

 肩を抱かれてぐいと引かれ、悲鳴が出そうになった。
 有無を言わせない態度になにも言えず、私は周囲の貴族に頭を下げる。


 エルヴィン団長はパーティ会場を抜け、開け放されたテラスへと私を連れて行った。そこでやっとすこしだけ解放される。

「一人にして悪かったな。何か問題は?」

 私は肩を竦め、首を振る。

「とくには。貴族の皆さまの酒の肴を提供する、という使命は果たしたかと思います」
「ならよかった。以前はリヴァイが色々……いや、その件はいいか」

 リヴァイ兵長はいったいなにをやらかしたんだろう。殴り合いはしないだろうが、きっと皮肉に嫌味で返したり、睨みで返したりしたのかもしれない。そうでなくとも、不機嫌そうに見える人だから。
 リヴァイ兵長に貴族がおびえる様子がありありと目に浮かぶ。
 テラスから、ダンス会場を見やる。パーティの一角に、先ほど自分がいた軽食が置かれているテーブルがある。
 参加人数よりも明らかに量が多い。残した後は捨てられてしまうのだろうか。

「……あの食事を、内地のひとは毎日食べているんですか?」
「内地の人間全員ではないな。貴族だけだろう」

 エルヴィン団長はそこでいったん言葉を区切る。

「だが内地の人間であれば、少なくとも肉は毎日食える。燻製肉だがな」

 圧倒的な格差社会がそこにはあった。
 本人の能力にかかわらず、生まれた時に決定づけられる血筋の差だ。

「憲兵団に入って内地に来ていれば、どうですか? 食事の内容は?」
「ステーキにデザートがつくな」

 団長の目の前だと言うのにため息が口から出てきた。敬意を払う態度ではない。ほろ酔いがそうさせるのかもしれない。

「それを聞いて、安心しました」
「なんだと?」
「私、本当は憲兵団に入るつもりだったんです。直前で調査兵団に旨趣替えしてよかった」

 エルヴィン団長が驚いた顔で私を見る。

「仕事はたいしたことない、上司は腐ってる、給金はいい、内地にいける、食事は豪勢。満たされすぎて性根まで腐りそう」

 肩を竦めて笑いかけるが、エルヴィン団長は笑ってくれなかった。まだ驚いている。

「調査兵団はいいですよね。上官の方々は心から信頼できますし、食事や命のありがたみを忘れないでいられるし」
「君は変わり者だな」
「それが調査兵団でしょう」

 私が返すと、エルヴィン団長がくちびるをかすかに持ち上げて笑った。
 しばしなごやな空気が流れる。すると、談笑していた周囲の雰囲気が変わり始める。
 楽団の演奏曲が変わり、いつのまにか貴族たちは男女一組になって向かいあう。どうやら、ダンスの時間のようだ。

「エルヴィン団長も踊るんですか?」
「なにを言ってる。君もだ」
「えぇっ」
「わかったうえで来たんだろう」

 行くぞ、とエルヴィン団長が私の腕に腕を絡ませた。有無を言わせない口調とエスコートを受け、慣れないヒールで移動する。
 周囲の貴族たちは、互いに両手を繋ぎ、音楽に合わせて軽やかにステップを踏んでいる。私は身体を縮めこませて、エルヴィン団長を見かけた。

「あのうダンス踊れないんですよ。私、本当に」
「私に任せておけ」

 ゆったりとリラックスしているエルヴィン団長は、なんだかとても頼り甲斐がある。壁の外でも中でも、この人は団長だ。私が慕い、追いかけるべきお人なのだ。

「もっと近づいて、私の首に手を回して」
「え? ですが……」
「いいから」

 ええい、これも任務だ。
 さらに一歩距離をつめ、エルヴィン団長の首に手を伸ばすと、今度はエルヴィン団長が踏み出してきた。

「これでいい」

 抱き合って音楽を楽しむ。それだけで構わないとエルヴィン団長は言う。確かに、驚く私など意に介さず、貴族たちは優雅にステップを踏んでいる。奇異の視線で見られることもない。
 作法とは違うのだろうが、社交の場では有りのようだ。
 しかし……。
 足と足が触れ合い、呼吸すら聴こえそうな距離が、どうにも居た堪れない。
 エルヴィン団長の顔が近い。こんなに近くては、私の肌の荒れも目立ってしまうだろう。パーティのために痛んだ毛先を切りそろえ、ドレスを仕立ててもらい化粧もしてもらったが、普段の手入れのずさんさはごまかせるものではない。
 女として見目や愛嬌を磨くよりも、兵士として戦闘能力を鍛えてきた。理解はしてくださるだろうが、共に居る女がこれではがっかりするだろう。

「エルヴィン団長、私が相手で退屈ではないですか」
「いや? とても助かった。むしろ君が気分を害していないか心配だ」
「とんでもございません、光栄です」
「ならよかった。リヴァイのせいで、面倒な役目を押し付けてしまった」
「いいえ。役得だと認識しています」

 きゅっとくちびるを持ち上げると、エルヴィン団長も目を開いてきょとんとした。その反応に、少し照れてしまう。笑ってくれないと恥ずかしい。
 エルヴィン団長は色男だ。きっと、いろんな女性の心を射止めていることだろう。そんな方と抱き合うような状態になっているこの状況はなんなのか。苦笑がもれる。

「どうした?」
「いいえ、エルヴィン団長の恋人に申し訳なくて。仕事とはいえ、やはりいい気はしないでしょうから」
「あぁ……。そういう心配はしなくていい。私はひとり身だ」
「詮索になったら申し訳ないのですが、驚きました。引く手あまたでしょうに」
「どうだろうな。言い寄られたことは少ない」
「ご謙遜を」
「調査兵団なんてそんなものだ。明日の命も知れぬ男を愛する女は、そうそう居ない」
「ああ……そうなんですかね」

 納得する。

「確かに、遺産や寡婦年金目当ての女のほうが群がってきそうですね。調査兵団の人間には……」

 こんな世界では、ろくな働き口もない。生産者になってもほとんどの作物は国に吸い取られてしまう社会では、働き口のある男と結婚して養ってもらうのは最良の楽をする方法だ。その点兵士はいい金づるだ。浮気の心配もなく、浮気がばれる心配も低く、嫌な言い方をすれば勝手に死んでくれるのだから。
 薄汚いとは思うが、立派な処世術だ。臆面もなく人を金づる扱いする気概は買う。しかし、エルヴィン団長がそんな女に群がられている場面は見たくもない。

「団長なら、本当に団長を支えたいと思う女性もいると思いますが……」
「買いかぶりだ」

 エルヴィン団長は首をふる。
 そんなことありません、と私は言おうとした。
 ここにあなたを支えたいと思っている兵士がいます。同じように、女としてあなたを支えようと思う女性もいるはずです。
 その言葉を飲み込んだのは、女がいくらエルヴィン団長を愛したとしても、エルヴィン団長にその気がなければ意味がないな、と思ったからだ。
 それに……新兵の分際で団長を支えたいだのと、あまりにも分不相応だ。そういうことは、口にする前に行動で示さねば。

「君はどうなんだ?」
「はい、なんでしょう」
「きみに恋人はいるのか?」
「いませんよ。独り身です……浮ついた話もありません」
「それも驚きだな。訓練兵時代はどうだったんだ。ああ、言いたくないなら言わなくていいんだが」
「とくには……。恋愛って、よくわからないんですよね。私には難しいです」
「恋をしたことがない?」

 こくりと頷いた。この年で変だ、と言われてしまうだろうか。
 私は貧民街の生まれで、母は娼婦だ。男女の睦事は母にとってビジネスで、母が不特定多数の男とベッドの上で絡まる様子は私にとって日常だった。
 一般的な夫婦のあり方を知らないから、恋や男性との『健全で正しい関係の結び方』がわからない。肩を組んで友になることはできても、恋人と言われるとピンとこない。

「燃え上がる思いは、自然と自覚するものだ。今はまだその時ではないのだろう」
「そんなものですかね」

 エルヴィン団長が大真面目に言うので、私はすこし驚いた。こういうことを言うと、だいたいの人間が茶化したり、恋もしたことがないのか、とはやし立てるからだ。エルヴィン団長が真面目な方なのだと、よくわかる。
 こんな会話、ふつうに兵士をしていたらまず発生しえない。抱き合って音楽を楽しむ、この近すぎる距離感が、私たちの心を開くのかもしれない。
 やっぱり役得かもしれない。と思った。
 感情を表に出さない団長の人間的な一面を知れたことに、私は妙に誇らしい気持ちになったのだ。
 ――この方は、壁の外でも、壁の中でも。変わらず強く、美しいのだと。そのことがひどくうれしかった。




2017/06/19:久遠晶
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