忍び寄る悪夢



 騎士の妻がこなす仕事は多い。馬の世話や管理、食事。城内の管理。夫が存分に戦えるためのサポートを一手に引き受けるのだ。
 大変だけれど、同時に誇らしい仕事だと思う。
 ホメロス様を妻として支えるのが私の仕事だ。あの方の馬を管理している時間はなによりも憩いの時間だ。
 デルカダール城でホメロス様の妻として暮らすことは、当初は慣れなかった。
 なにしろ私の国はデルカダールに滅ぼされているし、王族である私が生きていると知ったら当然デルカダール王が黙っていないのだ。暗殺を企てていると誤解されてもおかしくないし、そうなったらホメロス様も無事では済まない。
 デルカダール城で暮らすにあたって、私という存在そのものが危険を孕む。
 ――それでもホメロス様は、私と結婚してくださった。
 それはどんなにか幸せなことだろう。
 あの方と過ごせる今が愛おしい。

 最近は近隣の魔物が騒がしいと聞く。ホメロス様も各所に出向いては魔物の討伐に明け暮れていて、お会いできる時間がめっきり減ってしまった。
 ホメロス様が出撃される際はいつだって不安になるけれど、私に出来ることあの方を信じて送り出し、祈りながら待つことだけだ。
 いつあの方が戻ってきても笑顔で迎えられるよう気合いを込めて、私は早朝から城内を奔走していた。
 そんな時、厨房から侍女の泣き声が聞こえてきた。

「わぁ~! どうしようどうしよう……これじゃ王様に出すお飲み物が……!」
「困るよ~これじゃあ大変なことに……」

 なにやらただならぬ気配を感じ、私は足を止める。
 厨房に顔を出すと、そこは悲惨なありさまだった。どうやら侍女がワインを割ってしまったらしい。むせかえるようなお酒の匂いが鼻につき、床は赤く濡れてガラスが散乱している。
 侍女とコックが頭を抱えて唸っていた。

「……これは大変なことになってますね」
様……!!」
「お二人とも、お怪我はありませんか? しかし掃除が大変そう……」
「お気遣いありがとうございます、怪我はないんですが、今夜王様のお夕食に出すワインが………」
「なんとかごまかせませんかぁ~コック長~」
「そうはいっても、メニューの兼ね合いがあるし。いままでは我慢して来たけどこれはさすがにクビだよクビ。ていうかオレの立場だって危うい状況なんだからな!?」
「そんなぁ! これで故郷に帰ったら家族にどつかれますよ!! そこをなんとか……」
「とはいっても、オレだってなんとかしてあげたいけどさあ」

 侍女がコック長に泣きつき、コック長は困った顔で頭を掻いている。
 最近城付きの侍女となった彼女はドジでおっちょこちょいなところが多く、色々と失敗を重ねてばかりだ。
 長い目で見てきたけれど、今回ばかりは減給では済まないのかもしれない。

「今から仕込みを変えてもいいけど、うーんん。清めの水があれば……」
「えっ! あるじゃないですか! きよめの水なら!」
「うんさっき君が転んで壊したワインと一緒にね、ごしゃっとね」
「あっ」

 侍女の顔が青くなる。
 愛嬌があって愛らしいのだけど、いささかお調子者すぎるきらいがある。そういうところがかえって私は好ましく思っていたのだけど。
 私はため息を吐いた。

「もしよろしれば、私が採取してきましょうか? 清めの水を」
「えっ!? いいんですか!?」
「馬鹿!! ホメロス様の奥様になにいけしゃあしゃあと頼もうとしてるんだっ」

 ぱっと顔を輝かせた侍女の頭をコック長が慌ててはたく。

「奥様、お気になさらず……。この件はこちらでどうにかしますので……」
「実は私も草原の方に赴く用事がありまして。そのついでです」
「いやいやいや……ホメロス様にばれたら、我々がおかんむりをですね」
「そう。それなのです」

 私は拳を握った。
 ホメロス様は私が街の外に出ることを好まない。魔物がいるのだから当然なのだけど、街で買えないものが欲しいときには困りものだ。
 兵士にこっそり頼もうにも、ホメロス様が睨まれたくない兵士はすぐ暴露してしまう。兵士が隠し事に協力してくれても、顔色の変化に敏感なホメロス様がすぐに察知してしまう。
 おそらく、ホメロス様は私が秘密を持つのがいやなのだろう。すべてを管理したいお方だから。
 それがホメロス様なので不満はないけれど、でもやはり――こういう時にはとても困る。

「その……そろそろホメロス様のお誕生日でしょう? だからプレゼントを調達したいのだけど、勝手に外に出たらあの方は怒るから……」
「それだけ愛されてらっしゃるんでしょうな」
「だといいのですけど。――だから大義名分がほしいのです。王様によりよい美味しい食事を食べていただくために! これならきっとバレても怒られないはず……」
「そうですかねぇ……理由が問題じゃない気がしますが」
「そうです。きっと」

 と、言うより、そういうことにしておきたい。

「ですので、口裏合わせをお願いできますか? 清めの水なら私が採りに行きますから……ホメロス様も出撃中ですから、そうそうお気づきになることもないと思います。ね?」

 半泣きの侍女が救いの女神を見たように両手を合わせて私を拝んだ。
 コック長はまだしぶっている。

「……だめですよ、それはやっぱり。せめて兵士をひとりふたり連れていってもらわないと――もしモンスターと鉢合わせしたら……」
「それなら大丈夫」

 指先に魔力を込める。癒しの力に変換し、回復呪文ホイミを侍女に向けて唱えた。
 すこしだけ切っていた指先が修復されたのを確認して、私は笑った。

「こう見えて魔法には心得がありますので」

 コック長はまだ困った顔をしていたけど、なにも言わなかったので納得してくれたのだと思う。
 どっちみちワインの代わりを調達してこなければコック長は減給もの、侍女は退職を余儀なくされてしまうのだ。


   ***


 そう。私は敬虔な神のしもべであり、れっきとした僧侶だ。真空バギ系呪文の心得もあるし、騎士の妻として武術も少々かじっている。
 だからスライムやおおきづち程度はなんも問題なく倒せる。
 清めの水も調達したし、ホメロス様へのプレゼントに加工出来そうな物資も見つけた。
 それが――それがいま、ずたぼろになっているのは、単純に不測の事態が起きたからだ。
 森に、犬がいた。舌を出し、こちらに走ってきている。
 首輪の鈴の音がするので、街からの飼い犬であろうことはすぐにわかった。
 飼い主をはぐれてしまったのだろうか――と思ってから、それどころでないことはすぐにわかった。
 全力で駆ける犬の背後に、人の背丈よりも大きな魔物――ガルーダが追随しているではないか。
 犬は私に向かっている。つまりガルーダもまっすぐこちらに向かってきている。

 もちろん、私は即座に対応した。杖を掲げてバギを放って威嚇する。
 すこしひるんだらすぐに逃げるかと思ったけれど、読みが甘かった。ガルーダはよけいに怒り狂い、かぎづめをめちゃくちゃに振り回してきた。杖でガードしたものの、ダメージは避けられなかった。

「なんてこと……! ガルーダなんてめったに人里に出てこないのに!」

 ガルーダは本来標高高い崖の上に巣を作る魔物だ。頭がよく、人里のそばには決して近寄らない。それがデルカダールに出てくるとは。
 近隣の魔物が騒いでいる、というのを甘く見ていた。

 回復呪文は打てるので負ける気も死ぬ気もしないけど、逆に倒せるとも思えない。
 私の背後に隠れる犬が恨めしい。なにをして、ガルーダの怒りを買ったのだろう。とんだとばっちりだ。
 周囲が森だから、小規模のバギしか唱えられないのが不運だ。バギマを唱えればたやすく一掃できるけど、森林破壊につながってしまう。逆に言えばガルーダもうまく飛び回れず、膠着している状態だ。
 うまいこと草原におびき寄せて、バギマで仕留めよう。
 頭のなかで周辺の地図を広げる。
 ガルーダの背後にいる“少年”に気づいたのは、意を決して地面を蹴ろうとした瞬間だった。

 少年は音もなくガルーダの背後に近づき、地面を蹴り上げて跳躍した。ガルーダがそれに気づき、身をよじる。私はバギで翼の動きを封じる。
 振り上げた片手剣がガルーダの脳天にたたきつけられる。

「大丈夫ですか?」

 軽い身のこなしで地面に着地した少年が、私に駆け寄ってくる。私は片手を上げ、それにこたえる。

「ええ、おかげで助かりました」
「よかった」

 少年が目を細めて口元を持ち上げた。森林に差し込む木漏れ日の中で、なぜだかその笑顔はひどく神々しく思える。
 そよ風が吹き、少年のさらさらの髪の毛が揺れる。
 美しい、と思った。
 まるで――あの日、戦火の中で私に手を差し伸べてくださったホメロス様のように。
 時間が止まる。
 息をするのも忘れてしまう。
 なぜこんなにも胸が切なくなるのだろう。

「……お姉さん?」
「えっ、あ……ごめんなさい。すこし、ぼうっとしてしまいました。なんでもないの」

 声を掛けられ、我にかえった私は愛想笑いで慌ててごまかした。
 どうしてこんなに泣きたくなるのか自分でもわからない。
 ただ心臓は早鐘のようにどくどくと胸を叩いている。
 私の挙動が不審だったのか、少年は首を傾げ、それからまじまじと私を見た。

「ど、どうしたの?」
「……イシの村に来たこと、ありますか? どこかで会ったような気がする」
「残念だけど、気のせいね。イシの村に行ったことはありませんので」
「そうですか……」

 心のなかを見透かされたような気がして、ぎくりとする。
 どこか懐かしい雰囲気のする少年だ。精悍な顔立ちなのに柔和な表情で、物腰柔らかだからそう感じるのかもしれない。
 イシの村から来たのだろうか。剣を持ち、旅装だから、きっとデルカダールまで旅をして来たのかもしれない。
 服装を見ていると、服の裾が破け、赤い血が垂れていることに気づいた。

「まあ、怪我が……」 
「これはさっきおおきづちに――」

 少年が説明するより早く、口と手が動いた。素早く詠唱し、回復呪文ベホマラーを唱える。
 癒しの光が周囲を包み、少年と私の怪我に取り巻いた。光が失せるころには、もう怪我は跡形もない。

「ありがとうございます、でも大丈夫だったのに」
「構いませんよ、私の怪我のついでですから」
「わふん」

 隠れていた犬がすり寄ってきた。うんうん、犬の生傷も治っている。元気そうでなによりだ。

「さて、私はデルカダールに帰ります。貴方はイシの村ですか?」
「あ、ぼくもデルカダールです。イシに村から来たんですけど、道に迷っちゃって……」

 照れたように頭を掻いて少年は笑う。
 私は思わず呆れてしまった。イシの村とデルカダールはほぼ一本道だ。デルカダールの城は大きな目印になると言うのに、なぜ迷うのだろう。

「ふふっ。なら、ご案内しますよ。助けてくれたお礼です」
「ありがとうございます。でも、ぼくがいなくても大丈夫そうでしたね」
「そうでもありませんよ」

 私と少年が歩きだすと、犬もついてきた。少年の犬ではないようなので、おそらくデルカダールに住む飼い主のところから抜け出してきたのだろう。生傷の具合から見るにずいぶんと冒険してきたようだけど、さすがに犬も懲りたことだろう。


   ***


 デルカダールまで歩く間、少年と私はとりとめのないことを話した。
 少年はイシの村で育ち、先日成人の儀を終えたばかりなのだそうだ。洞窟をのぼり山の上の景色を見ていたと思ったら魔物が襲ってきて、幼馴染とふたりで大乱闘。
 はじめての実戦の疲れを癒す間もなく、少年は母親からデルカダールにいくことを命じられたのだと言う。

「よくわかんないんですけど、デルカダールの王様に会えばすぐわかるからって。これを渡せば通してもらえるはずだって……」

 少年は懐から布の袋を取り出した。
 首を傾げているので、彼自身デルカダールに行く意味がよくわかっていないのだろう。

「それ、見せてもらってもいいかしら?」
「あ、すみません、高価そうなペンダントなので、ちょっと……」

 周囲を気にしながら少年が言う。
 グレカダールの門をくぐり、人の多い城下町にはいった。盗人がいないかを気にしているらしい。
 そういう理由であれば私も無理に見させてもらうわけにもいかない。

「でも、王様が高価なペンダントひとつで謁見を許してくださるでしょうか。お母さまは少々楽観的なような……」
「ぼくもそう思います」

 少年が苦笑した。困った笑顔も様になる子だ。
 私は出会って幾ばくもないこの少年のことを、ひどく好ましく思っていた。

「仕方ないですね。門の兵士に話しかけたところで門前払いが関の山です。……すこしお時間をくださるなら、私から夫に掛け合ってみましょう。ちょうど今日の夕方、遠征から帰ってくるので」
「え?」
「こう見えて私はお城に住んでいるのです。王様にお会いできる立場ではありませんが、夫である将軍ホメロスに貴方のことを伝えます。それでよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます、ぜひ!」

 その時、少年のお腹から「ぐうう……」と音が鳴った。お腹を押さえて、少年が頬を赤らめる。
 私は笑って、街並みを見渡した。

「そうですね――城下町の食べ歩きでもしながら、待っていてください」

 おすすめの料理店を教えると、少年はぱっと顔を輝かせた。
 それからすぐにうつむいた。

「宿代しか持ってない……」
「……気になさらず。そのぐらい出しますので」
「本当ですか! あ、いや……ちゃんと返します。イシの村に帰ったら……」

 母さんにお金借りるんで、と、少年が気恥ずかしそうに笑った。
 成人の儀を終えたとはいえ、まだまだ子供なのだ。
 なんとみずみずしい表情をするのだろう。私は目を細めた。
 これぐらいの時分、私は国と家族、すべてを失い、途方にくれていたのだ――。


   ***


 少年は快く、私に布の小袋を預けてくれた。私が将軍の妻を騙る盗人とはまるで考えていないのだ。
 その無垢さにすこし心配になりながら、しっかりと懐に入れる。高価なペンダントが入っていると言っていたから、なくすわけにはいかない。
 城内に戻り、コック長に清めの水を渡した。コック長は泣いて喜び、これで首が飛ばずに済みそうだと喜んでいた。
 夕方、遠征から帰ってきたホメロス様を出迎える。
 諸々の仕事をしていると、すぐに夜になった。
 長旅でお疲れのホメロス様が、湯浴みのあとベッドに突っ伏している。

「お疲れ様です、ホメロス様」
「大して疲れることはしていないさ。本来なら私が出向くような内容ではないのだ、辺境の村に出たモンスター討伐など」
「ホメロス様がお顔を見せるだけでも、村の方々が安心するでしょう。信頼されているのも困りものですね」

 ベッドに腰かけると、ホメロス様が仰向けに身体を動かし、私を見上げた。長い髪の隙間から、切れ長の瞳が私を射抜く。
 手を握られ、腕に導かれた。つまり、マッサージしろ、と言うことらしい。
 無言の命令に従って、二の腕を揉み解す。毎日剣を振るう腕は力強い筋肉に覆われている。

「お前の方は変わりはなかったか?」
「それが変わりあるのです。実はデルカダールそばの森林にガルーダが出没しまして」
「なに? ガルーダ? それは事だ」

 ホメロス様ががばりと上体を起こす。立ち上がろうとするのを、手を引っ張って止めた。
 ベッドの上にホメロス様が座り込む姿勢になったから、先ほどよりも腕を揉みやすい。

「もう倒したので大丈夫です。森に巣を作っていたわけではないようなので、たまたまやってきたんだと思うんですけども。でも、すこし問題ですよね」
「なんだかすぐそばで見てきたような言い方だな」
「はい。お察しの通りです」

 ああ、隠していたかったのに言ってしまった。
 しかし少年の口利きをする以上、どこで知り合ったのかは説明せねばならない。
 叱られる覚悟をして、私は続ける。

「所用で森に行ったら遭遇しまして。その場に居合わせた旅人と共に退治いたしました」
「……怪我はなかったか」
「問題ありませんよ。私がべホマラー使えるの、ご存知でしょう」
「そういう問題ではない。くそ……だいたいお前はだな――あいたたた」
「痛いですか? もう少し優しくします」
「いや、効いている。その強さで押してくれ――もう、お前は本当に……」

 マッサージの加減を調整しつつ、私はうつむいて笑みを隠した。
 心配していただけてうれしい、と言ったらホメロス様はよけいに怒ってしまうだろう。
 口元を引き締めて、また顔を上げる。

「私が怒ると知って隠さず話したということは、なにかあるのだな」
「……あはは、さすがホメロス様。はい。それで、お願いがあるのです」
「お願い? ガルーダを討伐した褒美か?」
「知り合った旅人の少年が、デルカダール王の謁見を望んでいるのです」

 ホメロス様はあからさまに顔をしかめ、難色を示した。
 私は慌てて言葉を続ける。手は止めず、ホメロス様の腕をマッサージしたままだ。

「もちろん、それは叶わないことは少年もわかっております。ですので……せめて、ホメロス様に、会っていただけたらなと……」
「…………それは…………」
「だめですか?」

 眉を下げて頼み込む。
 眉間にしわをよせ、眉をはねあげるホメロス様は本当に嫌そうな顔をしている。ホメロス様は不機嫌そうな顔のレパートリーがすこぶる多い。
 私が勝手に一人で街を出ていたあげくに、魔物に遭遇していて、さらに妙な頼み事をしてくる――と言う状況なので、単純にイライラが募っているんだろう。
 しかし私にとっては少年は恩人のようなものなので、少年の願いは出来る限り叶えてあげたい。
 睨むホメロス様から目をそらさないでいると、根負けしたホメロス様がため息を吐いた。

「……珍しくお前がなにかをねだったと思えば、そんなくだらないことか」
「も、申し訳ありませんホメロス様……」

 ホメロス様は脱力し、腕をマッサージしていた私の手を取った。そのままベッドに再び寝っ転がる。
 自然と引き寄せられ、私がホメロス様を押し倒したような体勢になる。

「ベッドの上でのねだりごととは思えないな」

 自然と垂れた私の髪の毛を掻き上げながら、ホメロス様が私の頭を撫でる。両手で頭を押さえこむ撫で方が、ホメロス様は好きらしい。
 ベッドの上、と強調して言われ、私は思わず頬を染めた。はしたない状況だと笑われた気がしたからだ。

「もっと他になにかないのか。宝石とか、服とか……そういうものが欲しいだろう。ことさら質素な生活をする必要はないんだぞ」
「私の望みはホメロス様だけです。貴方様がご無事なら、私はなにも」
「元が一国の姫君とは思えんな。贅沢な暮らしが恋しいだろうに。というか、もうすこし贅沢したっていいんだぞ」
「うーん、確かに綺麗なドレスへのあこがれはありますけども……」
「遠慮せず言え。妻に我慢させていると思われたくはない」

 確かに、将軍の妻が粗末な服を着ていたら、ホメロス様の体面が悪くなる。わかってはいるから、公的な場ではきちんと衣服は整えているのだけど。
 それ以外の普段着で着飾るというのは、あまりピンとこない。

「ホメロス様が選んでくださったドレスで十分です。ホメロス様に見ていただかなくては、着飾る意味がありませんもの」

 私が言うと、ホメロス様はきょとんとした。釣り目が丸く見開かれ、ぱちぱちとまばたきする。

「ふ……くくくく、お前は本当に欲のない女だな」
「わ、笑わないでください。真面目に言ってるんですから」
「真面目に言ってるから面白いんだ」

 ホメロス様は私の下で、背中を丸めてくつくつ笑う。つぼに入ってしまったのだろうか。理由がわからない。
 でも、普段しかめっ面ばかりなさっているから、笑ってもらえるのは純粋に嬉しい。……馬鹿にされている気がしなくもないけれど。
 ひとしきり笑ったあと、ホメロス様は私の首に手を回した。
 ぐいと引き寄せられるがまま、ホメロス様の身体に倒れこむ。
 ホメロス様の上に乗って抱きしめられる度、私は重たくないだろうかとどきどきしてしまう。しかしホメロス様のたくましい身体は、私の不安よりもずっと頑丈に出来ているようだ。
 猫のように顎をくすぐられると気恥ずかしい。でも嫌いじゃない。ホメロス様に抱きしめていただくのが好きだ。

「では、そんな無欲な妻の頼みならば断わるわけにはいくまい。ええと……なんだっけ?」
「イシの村から来た少年です。名前は……そういえば聞いてなかったな」
「おいおい。――その、子供の話を聞いてやればいいんだな。まったく王に会いたいなどと、とんでもないことを言う子供だ」
「イシの村に凶暴な魔物が出没したそうですから、その件かもしれません。あぁ、そういえば」
「どうした?」

 私はホメロス様の腕をすり抜け、ベッドを降りた。
 少年から預かっていた布の小袋をバックから取り出し、ホメロス様に差し出す。

「『これを見せれば城に入れてもらえるはずだ』と少年は言っておりました。私も中身は見ていないのですが……」
「今確認しろって言うのか」

 ホメロス様が面倒くさそうに上体を起こした。頭を掻きながら、片手で小袋を受け取る。
 紐を開いて中身を覗き込んで、ホメロス様は硬直した。
 長い前髪が邪魔をして、表情は見て取れない。

「ホメロス様……?」
「――少年は、いまどこに?」
「え? あぁ、今日は宿に泊まると言っていましたよ」
「そうか……これは……」

 ホメロス様が低く唸り、口元を手で隠した。
 小袋の中に何が入っていたと言うのだろう。不安になってお顔を覗き込もうとした瞬間、ホメロス様はさっと立ち上がった。
 無言で扉へ歩くホメロス様に、慌てて声をかける。

「どこに行くのです? ホメロス様……」
「王の元に行く。お前はここで待っていろ」
「ホメロス様、」
「いいから待て」

 有無を言わせぬ口調で言われれば、従うほかない。
 ホメロス様が部屋から出て行ったので、寝室には一人きりとなった。
 寝てしまおうかとも思ったけれど、主人より早く寝ることはできない。とりあえずベッドの端に座って、足をぶらぶらさせて時間をつぶす。暇だ。
 時間を持て余していると、なにやら城内が騒がしくなってきた。
 そう。
 まるで十六年前のあの日――ユグノア前国王様とデルカダールの姫君に化けた魔物が、我が国に逃げ込んできた時のように。
 にわかに胸がざわついた。
 私は寝間着姿であることも構わず扉を開け、そっと廊下を見渡した。
 廊下を、鎧を着込んだ兵士たちが速足で歩いている。その中のひとりを捕まえて話しかけた。

「待ちなさい。これはなにが起こっているのですか。こんな夜更けに……」
様。はっ、悪魔の子が城下町で見つかったとのことで、今から捕らえにいくところです」
「――あくまのこ?」

 はっ、と兵士がきびきびと返事をした。
 そこには平時の気の抜けた感じは一切ない。どれほどの深刻さで事態が動いているのかを、私に突き付ける。

様はこのままお待ちください。絶対に部屋から出ないでください」

 兵士は私にそう言い含めると、出撃する者たちに交じって消えていく。
 悪魔の子――それはつまり、十六年前ユグノアを襲った、魔物を呼ぶ忌み子であり人間の敵のことだ。それが、城下町にいる?
 今頃宿屋で寝ているに違いない少年は無事だろうか。
 ホメロス様が少年の小袋を見るなり王様に会いに行かれたことと、関連はあるのだろうか。
 なにもわからない。
 ただ胸がざわつく。
 私は言いしれない不安な気分になりながら、城下町に向かい進軍していく兵士を眺め、扉の前で立ち尽くすことしかできないでいた。